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博多の櫛田神社は、佐賀神埼にある櫛田神社の末社だったんですね。
1115年、鳥羽天皇が櫛田宮の社殿を修造した際、伴兼直と本告道景を勅使別当職として下向させました。そのまま土着した両氏は伴兼直が執行家の祖に、本告道景は本告家の祖になりました。
本告氏は櫛田神社の宮司職なども務め、鎌倉時代末期から南北朝の頃には武士化し、戦国時代には国人として各地で戦っています。室町幕府の時代には肥前守護少弐氏の配下として活躍、龍造寺隆信が台頭してくるとそれに従い戦国時代を生き延びました。
本告城は現在の神埼市本告牟田、自得寺一帯に築かれた城で、寺内に案内板が設置されています。
城の主郭らしき曲輪の東側に位置した自得寺。寺内に城の痕跡を探そうと思いましたが、それらしい遺構は見つかりませんでした。
城の構造は佐賀平野特有の水路のなかに浮島のように曲輪が配された、環濠平城でした。自得寺の西側一帯が城の中心部でしたが、今はほとんどの部分が農地整備によって水路になってしまいました。
主郭部を含めた城のほとんどが、この水路になっています。
上の水路から南側、この方向に城の曲輪群があったはずです。
農地整備がなされる前の航空写真、かなり城の形状が残っています。
農地整備後の航空写真、きれいに区画整理されてしまいました。
現在は寺の南側に、それらしい濠が残っています。堀跡の西側から、東方向へ撮影。
自得寺の北側から撮影すると、田の中に曲輪が浮かんでいるように見えます。ここは曲輪の形を残しているのかもしれません。
案内板にあった発掘時の写真、北から南へ撮影しているようです。この写真を見ると、ちょうど建物跡が集中している主郭などをぶち抜くように水路が作られました。
寺の北、少し西よりの場所。かなり城郭の様子が正確に映っています。
本告氏は神埼の国人衆としては早い段階から龍造寺隆信に属しており、1553年に隆信が蓮池城の小田氏を攻めた際には龍造寺方として三百騎余りを率いて参陣しています。
この戦で当主頼景は蓮池方、少弐氏の重臣である馬場越後守に討たれ戦死。続く1558年、隆信が姉川城に本陣を置いた勢福寺城攻めには隆信に従属した小田氏とともに出陣、莞牟田縄手の戦いにも先陣として出陣しています。
大友宗麟が三万の兵を率いて肥前に侵攻した際には、今山の合戦で隆信が勝利するといち早く和平を申し入れて許されました。
神埼市は龍造寺と少弐、戦国大名化する土着の豪族VS幕府により任命された守護大名の熾烈な戦いが繰り広げられ、九州で唯一下剋上の舞台となった戦乱の地。守護大名少弐氏終焉の地となった場所だけに、様々な歴史遺構が残っています。
佐賀の戦国史は龍造寺の歴史、こういった遺構を巡りながら自家の興亡をかけて時代を駆け抜けた群雄たちに思いをはせるのは、本当に面白いですね。
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