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浜松城 のちの天下人が絶体絶命の危機に陥った戦い

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 1572年(元亀3年)浜松城の近く、三方ヶ原を舞台にして戦が起きている。甲斐の武田信玄と浜松城を拠点にする徳川家康との戦いだ。
 浜松城(静岡県浜松市中区元城町)は三方原台地の南東端に作られた平山城である。近世城郭として1577年(天正5年)に建てられた。それ以前、この地には今川氏親の家臣・飯尾乗連(連竜)が築いた引馬城があった。乗連の子・乗竜が城主をしている頃、家康に追われ、家康の支城になったと伝わっている。その後、引馬城を取り込む形で浜松城が築城されたわけだ。

 家康はこの城で29歳から45歳までの時を過ごしている。天下人となる家康を形作った城といってもいいのではないだろうか。この城にいる時に家康が命の危機に瀕した、「三方ヶ原の戦い」が起きている。
 領地の拡大を進める信玄は、1572年(元亀3年)の10月3日に3万近い兵を率いて甲斐を出陣、遠江へと向かった。南下した武田軍は浜松城の北10キロメートルにある二股城を攻め落とした。そのまま、浜松城へ向かうかと思いきや、浜松まで3キロメートルまで近づきながら、北西に進路を変えて三方ヶ原へと移動していった。
 家康は籠城戦を覚悟していたので、あっけにとられてしまったことだろう。敵が去った以上、そのまま戦いを避けることもできるのだが、当時の家康には城に籠ったままというわけにはいかない事情があった。
 まず、同盟を結んでいる織田信長の援軍が来ていた点だ。援軍といってもわずか3千の兵しかおらず、監視が目的といわれている。その折、戦うことなく逃げれば、家康は信長に見限られる可能性もでてきてしまう。
 家康が引けなかったもうひとつの理由は領国の地侍の影響だ。武田氏の三河進出で、武田氏に味方する者が続出し、家康としては彼らへのアピールのために一か八かでも戦う必要に迫られていた。兵数は、家康の8千に信長の援軍を加えて1万1千という数になるが、武田軍の半分にも満たない。事情が事情なだけに、家康は少数の兵を率いて浜松城を出立し、三方ヶ原へと赴く。
 武田軍が三方原台地の北端へ移動し、徳川軍がそれを追う形になった。北端まで進んだ武田軍はいきなり踵を返し、徳川軍との戦闘が始まった。
 戦いは16時に始まり、その日のうちに決着がついている。早く終わったことからも、家康の惨敗だったことが予想される。一方、江戸時代に記された書物には、少数でありながら健闘したと書かれているものもある。それ以外にも、浜松城に戻った家康が、篝火をつけ、城門を開いたため、何かの策だと疑った武田軍が攻められなかったという作戦があったともいうし、徳川軍が野営していた武田軍を夜襲し、驚いた武田軍が崖から落ちて死んだともいう。これらも後世になって作られた話といわれており、将軍家の祖となった家康への配慮だろう。
 勝利した武田軍はそのまま家康の領内にとどまり、台地の麓の刑部というところで年を越した。1月には野田城を包囲、2月に城主を降伏させている。このまま信玄は三河や遠江を侵略しそうなものだが、彼の進撃はここで止まってしまう。病状が悪くなったためだ。信玄は上洛を夢に描いていたといわれるので、その夢の途中で倒れてしまい、4月12日に死去した。
 家康にとっては幸運と言うべきなのだろう。信玄が倒れたおかげで侵攻されずに済んだわけだ。家康にとって信玄との戦いは忘れることはできないものだったのだろう。1582年(天正10年)に武田家が滅んだあと、家康は武田家の遺臣を自らの旗下に加えている。甲斐の領地運営に利用しただけではなく、五男・信吉の母が武田氏の縁者であったため、彼に武田を名乗らせ、武田氏の旧臣をつけて再興させているほどだ。家康は敗北を味合わされてなお、戦上手な信玄を敬愛していたのかもしれない。

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