墨俣城は現在の岐阜県大垣市墨俣町にあった城だ。この城は一夜城の異名を持っている。尾張の戦国大名・織田信長の家臣だった頃の豊臣秀吉によって短期間のうちに築かれたため、そのように呼ばれる。
築城される少し前、信長は東美濃に進出し、西美濃の攻略を進めようとしていた。墨俣は墨俣川(長良川)の西岸にある。ここは美濃の東部と西部をつなぐ、交通・軍事の要衝であった。そのため、美濃攻略の拠点を墨俣と決め、城の築城を家臣・佐久間信盛に命じた。1562年(永禄5年)4月、信盛は5千の人夫を動員して工事を進める。しかし、築城の最中、斎藤勢からの夜襲を受けて築城は失敗に終わった。
失敗を受けて、二度目の築城には、織田家の重臣・柴田勝家を当たらせている。同年5月、勝家は斎藤勢の攻撃に備えながら築城を進めた。だが、またもや斎藤勢からの夜襲を受けて築城は再び失敗。
二度の失敗を受けて、1566年(永禄9年)の5月に信長は諸将を清須城(現愛知県清須市)に集め、美濃攻略の軍議を行った。その時に立候補したのが、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)であったと伝わっている。
藤吉郎は墨俣川につながる木曾川の水運を利用して木材を運ばせた。当然、木曾川近くの豪族と連絡を取り、輸送時の防衛、運搬の手はずを整え、一気に築城を進めた、とされている。一夜城とはいっても本当に一夜で城を作ったのではなかったわけだ。
築城によって織田軍は有利になり、美濃攻略を成し遂げた。信長の上洛は一歩前進し、藤吉郎は墨俣城主となっている。三英傑に数えられる彼の快進撃はこの後も続いていく。