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二本松城 決死の仇討ち

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 1585年(天正13年)、伊達政宗の軍勢が二本松城(福島県二本松市)を攻めた。これはこの年に死んだ父・輝宗の弔い合戦であった――。
 二本松城は、1414年(応永21年)に奥州探題(室町幕府の役職で、陸奥国内の軍政・民政を担当していた)の畠山満泰によって築城されたという。城は白旗ヶ峰の山頂に築かれた山城で、山頂が霧に包まれることが多いため霧ヶ峰城とも呼ばれている。

 争いの発端は、1584年(天正12年)10月のことだった。出羽米沢城に本拠をおいていた伊達輝宗は長男・政宗に家督を譲っている。新たに当主となった政宗は、近隣諸国に争いを仕掛け、領地の拡大をおこなっていた。
 翌年の8月、二本松城主・畠山義継と対峙したが、義継は輝宗に、政宗への仲介を依頼した。ところが、義継は仲介に応じた輝宗を人質にして逃走。一報を知らされた政宗は、鉄砲隊に人質の輝宗ごと義継を撃たせ、父を敵と一緒に葬り去った。その報復のために、政宗は二本松城への攻撃を始めている。
 これに対して、常陸の佐竹義重、会津の蘆名亀王丸を中心に、南奥州の諸大名も集まって連合軍を作り、義継の遺児・国王丸を擁立して反撃を開始した。両者は阿武隈川支流の瀬戸川を挟む、人取橋(福島県本宮市)でぶつかる。連合軍約3万人に対して、伊達側は約7千という兵力差があった。伊達側は総崩れとなったものの、老将・鬼庭左月らが奮戦し、自らの命と引き換えに味方を逃がしている。しかし、それでも戦いは終わっていない。敗北は火を見るよりも明らかながら、伊達軍は翌日決死の覚悟で戦場へ出た。ところが、戦場に連合軍の姿はなかった、という。
 じつは佐竹氏の領地に留守を狙って安房の里見氏、水戸の江戸氏が攻撃する動きを見せたのである。そのため連合軍は撤退。政宗は命を拾うことができた。
 この後、政宗の快進撃は続いていく。奥州の覇権を握ろうとするわけだが、この頃には、天下の行方は豊臣秀吉に傾いていた。1584年(天正12年)には徳川家康との戦いを制し、その後も西日本に支配を拡大している。政宗が天下をつかむためには、生まれるのがやや遅かったのかもしれない。

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