攻城団ブログ

攻城団の各種お知らせ用のブログです。スタッフからのサイトに関するご連絡のほか、お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

ふたつの伊勢崎陣屋

リクエストいただいた伊勢崎陣屋を登録するにあたって調べてみると、いろいろややこしいことがわかったのでその内容を整理します。

みなさんにいただいたリクエストのお城を登録する際、ひとつのお城につきだいたい1時間くらいは調査しています。
あまりに有名だったり、あるいはほとんど情報がない場合は30分未満のこともあるんですけどね。

一方、長いケースになると3時間以上調べるなんてこともたまにあります。
そもそもはぼくの知識が圧倒的に足りてないのが問題なのですが(そのおかげで歴史を学ぶ喜びを日々味わえているのも事実です)、情報が断片的すぎてよくわかんないケースはあるんですよね。
今回紹介するのもそんなケースのひとつです。

伊勢崎陣屋とは

「伊勢崎陣屋」は群馬県伊勢崎市にあった伊勢崎藩の藩庁です。
伊勢崎藩は以下のような歴史をたどっています。

  • 1601年(慶長6年)に「関ケ原の戦い」の功によりこの地を与えられた稲垣長茂が立藩
  • その後、長茂の子の重綱が「大坂の陣」で戦功をあげて越後藤井藩2万石に加増移封となり、大老・酒井忠世に藩主は代わるが、忠世が本家(前橋藩、当時は厩橋藩)を継いだため一時期廃藩
  • 1681年(延宝9年)に前橋藩主・酒井忠清の子、酒井忠寛が2万石を分知されて再度立藩

この「一時期廃藩」がポイントです。

攻城団の城郭データベースの登録基準

攻城団ではお城の拡張や修築などの場合、たとえ名称が変わっても同じ城として扱っています。稲葉山城と岐阜城みたいなケースですね。
これは「訪問履歴を管理するツールなんだから、同じ場所にある以上、わけても(けっきょく両方に記録を残すことになるから)意味がない」と考えているためです。

ただその近くにある加納城のように、もともと沓井城があった場所にかなり時間があいて築城された場合は、別の城として登録するようにしています。
(この加納城は「関ケ原の戦い」後に岐阜城が破却されたため、天下普請で築かれた城ですね)

今年の大河ドラマでいうと、曳馬城(引馬城)と浜松城は「拡張」であるため同一とし、掛川城はそれまでの城(掛川古城)を壊して移っているので別の城として登録しています。ただし掛川古城は当初は同じ城でいいやと掛川城の城メモで紹介していたのですが、リクエストいただいた際に再考してわけることにした、という経緯があります。

このように「いちおうのルールを定めつつ、柔軟に対応しよう」というのが、攻城団の城郭データベースの設計思想です。

ふたつの伊勢崎陣屋

さて、話を戻します。
稲垣長茂が立藩したときは「赤石城に入った」という情報を手元にある『藩と城下町の辞典』(二木謙一、東京堂出版)で見つけました。

そうです、ここには赤石城というお城がすでにあったのです。そして長茂は赤石城を改修したそうですが、これは「伊勢崎陣屋」と呼ばれたのか、あくまでも「赤石城」と呼ばれていたのかはわかりませんでした。

ただ伊勢崎市のサイトにある市の重要文化財を紹介するページで、

この門は、伊勢崎藩主稲垣長茂の屋敷門と伝える。長茂は現在の同聚院付近に館を構え、陣屋の完成後、館は同聚院に引き継がれた。同聚院本堂の建替えはあったが、門はそのまま残された。門の構造は、瓦葺きの切妻造りで本柱4本と控柱4本の4脚門であり、本柱の位置が屋根の棟よりも前にずれる薬医門の形式である。 同聚院の武家門

とあり、「陣屋の完成後」の文言を見るかぎり、稲垣氏時代にも陣屋が築かれたと推測されます。
だとすればいったんは赤石城に入って、その後あらたに自分の陣屋を築いたと考えられますね。

おまけに酒井忠世が入封したときにも、現在の善應寺のあたりに陣屋を築いたという記録があります。そしてこの陣屋が「一時期廃藩」のときに破却されたと。
このあたりはGoogleマップで寺の位置を確認しながら、調べてました。

そして、忠世が前橋藩を継いだのが1617年(元和3年)で、忠寛が再立藩したのが1681年(延宝9年)と、64年の空白期間があるので、これは別ものとして登録してもいいかなと考えました。
ただし「一時期廃藩」前については陣屋の有無や、建てられた場所によって赤石城と分割すべきかどうか(分割する場合「前期伊勢崎陣屋」「後期伊勢崎陣屋」とするべきか)を検討しなければなりません。

まとめるとこんな感じです。

  • 伊勢崎の地にはもともと赤石城があった
  • 1601年(慶長6年)に稲垣長茂が移封となったとき赤石城に入っている
  • 長茂は陣屋を築いたのか、それとも3万石以下だったので(長茂は1万石)赤石城を「陣屋」と呼んでいたのか
  • またあらたに築いたとしたら場所は同聚院あたり(赤石城と同じ場所)でいいのか
  • 酒井忠世が稲垣氏に替わって入封した際に現在の善應寺のあたりに陣屋を築いた
  • 1681年(延宝9年)に酒井忠寛が再立藩した際に伊勢崎市図書館のあたりに陣屋を築いた

ここまではなんとかネットとライブラリーの書籍をもとに整理しました。
(ライブラリーの資料はこういうときにほんとうに役に立っています)

あとはもうお手上げなので聞くしかありません。
今回も伊勢崎市に問い合わせました。そして以下の回答を得ました。

伊勢崎市史によると稲垣長茂は入封と同時に赤石城跡に陣屋を構えたとの記載があります。
棄却されたか、そのまま改修を行ったか、別個に建てられたものなのか
ということに関してはこれ以上の明確な記載がないため不明です。
(中略)
あくまで推測の域を出ないのですが、稲垣長茂の立藩時に新たに陣屋を築き、
酒井忠世の廃藩時に一度棄却、その後酒井忠寛の再立藩時に再び陣屋を築いているようです。

いつも各地の文化財課や教育委員会のみなさまには快くご協力いただき、ほんとうにありがとうございます。
(そして「これ聞いてきて!」というぼくの無茶振りにいつも迅速かつ丁寧に対応してくれているコースケさんにも感謝)

不明な点は残るものの、「稲垣長茂は入封と同時に赤石城跡に陣屋を構えた」というのは貴重な情報です。
これでひとまず赤石城と長茂時代の伊勢崎陣屋は連続したもの(=同じ)として扱っても無理がなさそうです。

結論として、ふたつのデータをつくることにしました。

赤石城 赤石城の築城時から、酒井忠世が前橋藩を継いで伊勢崎藩が「一時期廃藩」になるまで
伊勢崎陣屋 酒井忠寛が再立藩してから明治維新後に廃城になるまで

ちなみに赤石城はのちに「伊勢崎城」と呼ばれるようになっているため、データベースには伊勢崎城で登録しています(別名として「赤石城」「伊勢崎陣屋」を登録)。

ふたつの赤石城

ちなみに赤石城もふたつありました。ただしこれは同じ場所ではなく、ぜんぜん別の場所にあり、単なる名前の重複だったのでとくに悩む必要もなく、データをつくっています。
この(伊勢崎市ではなく)前橋市にあった赤石城も、築城者は同じ人物(=赤石左衛門尉)で、なんでまた同じ名前にしたのかなあ。本人もまさか500年くらい経ってデータベースをつくりづらいと文句いわれるなんて思いもしなかったでしょうけどね。

最後に補足

今回の措置はいちおういまできるかぎりの情報収集をした結果であって、あくまでも現時点での結論であることは付記しておきます。
今後の調査結果次第では修正する可能性もありますので、もしなにかご存知のことやぼくの理解にまちがいがあった場合はぜひ教えていただけると助かります。

とまあこんな感じで、ぜんぶがぜんぶここまで時間がかかることはないのですが、たまにこうして「ハマって」しまうことがあるため、データベースの登録ペースが遅いという点はご理解いただければありがたいです。

   
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