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よくわかる第一次上田合戦

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いよいよ今週の『真田丸』は前半のクライマックス「第一次上田合戦」です。
ご存知のとおり、真田昌幸上田城で二度、徳川軍を撃退しています。その最初の合戦が今回の「第一次上田合戦」で、たんなる籠城戦ではなく撤退する徳川軍を城外まで追撃してることから地名をとって「上田・神川(かんがわ)の合戦」や「神川合戦」とも呼ばれます。

ざっくりと合戦の経緯をまとめました。
(いうまでもなく「諸説あり」満載の経緯なので、事実と異なる部分があるかもしれません)

  1. 信幸が一隊を率いて戸石城に布陣
  2. 徳川軍が上田城を攻撃
  3. 二の丸門まで攻めこまれたところで昌幸が反撃
  4. 信幸の部隊が背後から攻撃
  5. 撤退する徳川軍をさらに追撃
  6. 神川のせきを切り決壊させてフルボッコにする

以下、ちょっと詳しく書きますね。

この合戦は真田軍の完全勝利に終わるんですけど、戦力的には徳川軍7000人に対して、真田軍は2000人ほどと3倍以上の兵力差がありました。
「攻者三倍の法則」にならえば、徳川軍としては敵の3倍以上の兵力をそろえた時点で戦略的には優位に運んでいるんですが、これってたぶん野戦の場合で、籠城した相手に力攻めをするにはちょっと足りなかったような気もします。

ちなみに孫子は「故用兵之法、十則圍之、五則攻之、倍則分之、敵則能戦之、少則能逃之、不若則能避 之、故小敵之堅、大敵之擒也」と書いていて、ようは敵の10倍の兵力がれば「包囲戦」が最良だといってます。

そもそも上田城は三方を堀や断崖で囲われているため、攻め手が渋滞するんですよね。
じゃあなんで無理して力攻めしたのかというと、正確なところはわからないのですが、ひとつは地方の国衆にすぎない真田家をなめてたというのがあるでしょう。徳川勢が「天守もなき小城」と上田城のことをバカにしたという記録がありますが、すぐに落とせると思ったんでしょうね。
余談ですが、上田城に天守があったかどうかはわかりません。もしあったとすればこの合戦後に築かれたんだと思います。

もうひとつは家康がブチ切れてたのかなあと想像してます。
ドラマを見てもわかるように、上田城はほとんど徳川のお金でつくったお城です。自分が建てたマンションの管理人を任せただけなのに、あっさり裏切ってマンションを自分のものにしちゃったわけですから、「いますぐ昌幸のタマ取ってこい!」とキレるのは当然ですし、その家康がまだ人質時代からの側近である鳥居元忠あたりは忠実に命令を守ろうとしたのかもしれません。

そういう意味では持久戦に持ち込ませなかったというのが最大のポイントだったのかも。

あと補足すると、じつはこの時点では上田城はまだ未完成でした。
この合戦の前後に上杉勢に普請を手伝ってもらってようやく完成しています(ここでも他人の財布を利用する昌幸ってすごいですよね)。

合戦の経緯は冒頭のイラストのとおりですが、真田軍はわずかな手勢をふたつにわけて、一隊を嫡男、真田信幸が率いて戸石城に布陣します。そして神川を堰き止めました。

閏8月2日、鳥居元忠大久保忠世平岩親吉らの軍勢が上田城に攻め寄せます。この3人はいずれものちに「徳川十六神将」に数えられるほどの武将です。

徳川軍が神川を渡ろうとしたときに昌幸が最初の攻撃を仕掛けます。
不意をつかれたために一時混乱しますが、おそらく敵が少数だったこともありすぐに立て直してこれを撃破。そのまま逃走する真田軍を追いかけて上田城に攻め込みます。
なんかこのあたりで「釣り」っぽいにおいがプンプンしますね。

大手門から二の丸門まで一気に突破した徳川軍に対して、真田軍は一斉射撃をくわえました。また城下町にひそませていた伏兵がゲリラ戦を仕掛け、徳川軍が混乱したところに信幸の手勢が背後から攻撃を仕掛けました。イケイケドンドン。
つづいて、昌幸はあらかじめ城下町に千鳥がけの柵を用意しておき、徳川軍の撤退を邪魔しました。とことんえげつない人ですね。

さらに城下に放たれた火と煙によって視界を奪われた徳川軍は、上田城から出撃した軍勢からも攻撃されます。かろうじて城外に脱出した兵も山野に伏せていた土民兵の攻撃に追われ、無双状態の信幸隊にも追撃されて、神川まで敗走をつづけます。

そして神川を渡ろうとしたときに昌幸はあらかじめ築いておいた人工堰を壊して川を決壊させます。ドラマだと佐助や出浦昌相の出番でしょうね。
先を争って渡河していた徳川軍はここで大量の溺死者を出します。ここはたぶんいろいろ配慮してドラマではナレーションだけかも。撮影にお金もかかるし。

......という感じで、「第一次上田合戦」は真田軍の大勝利に終わりました。
この戦いにおいて徳川軍の戦死者数は1300人といわれており、一方の真田軍は40人ほどにとどまったと伝わっています。まさに圧勝。
真田昌幸の名前が世に知られ、小県郡の国衆から大名になっていくおおきな転機となった合戦です。

丸子表(まるこおもて)の戦い

「第一次上田合戦」で真田軍に大敗を喫した徳川軍は、攻撃目標を上田城の南にある丸子城に変えました。
丸子三左衛門(三右衛門)が守るこの城を徳川軍の諏訪頼忠岡部長盛らが攻撃しましたが攻略できず、昌幸も背後から牽制して籠城を支援しました。
その後も徳川軍は井伊直政の援軍を得て攻城を続けましたが、落城することなく撤退しています。

石川数正の出奔に救われた昌幸

真田家にコテンパンにやられたあとも、徳川軍は信濃から兵を引くことなく、上田周辺は緊張状態にあったようです。
それが11月に入って突然、徳川軍が遠江に引き上げました。昌幸が直江兼続に宛てた11月17日付の書状では「なんか家康が軍勢を呼び戻したっぽいんだけど、理由がよくわからんのですよ」と書いてあります。草刈さんが目に浮かぶ。

じつはこの背景には家康の重臣であった、石川数正が突如、豊臣秀吉のもとに出奔したという事件がありました。
かつては織田信長と交渉を行ない、清洲同盟の成立に大きく貢献するなど、家康の懐刀として活躍していた重臣中の重臣がいきなり出ていったわけですから大事件です。第2回で家康に対して「徳川家中は一心同体。心配ご無用でございます!」っていってたんですけどね。

数正は徳川家のあらゆる情報を知り尽くしていましたから、軍事機密もすべてダダ漏れになりますし(そこで家康は自家の軍制・陣法を武田家のものに改めています)、上田征伐どころじゃなくなったわけです。

こういうイベントが影響しあってつむがれていくのが歴史のおもしろいところですね。滅亡寸前だった上杉氏が「本能寺の変」によって生きながらえたように、数正の出奔によって真田は生き延びたといえるでしょう。
じっさい、このとき家康が万単位の援軍を差し向けていれば、まずまちがいなく上田城は落城していたでしょうからね。

ちなみにこの数正の出奔の理由はいまだに謎です。
ぼくはこれは「本能寺の変」や「坂本竜馬暗殺」に匹敵するくらいのネタだと思っていて、たんに家康と不仲になったという説や、秀吉の器量に惚れ込んだという説(秀吉との外交も数正が担当していました)、あるいは家康と示し合わせて投降したふりをしたという説など、いろいろあります。
もっとも家康が関与していれば上田攻めを撤退させる必要はないので(そこまでが演技の可能性もありますけどね)、やっぱりわかんないですね。

山岡荘八さんの小説『徳川家康』では、あえて秀吉の家臣となり、家康の外交を秀吉の側から助ける役目を引き受けたという設定でした。
これは横山光輝線先生のマンガ版もありますけど、どちらもオススメです。

あとは「小牧・長久手の戦い」の結果(=信雄が勝手に秀吉と和睦した)に不満が残る家康をおさえるために、秀吉との直接対決をするには時期尚早であると、家康を戒めて時間的猶予を与えるために出奔したという説もなにかで読みましたね。

ね、いろいろあっておもしろいでしょう。

沼田城の戦い

真田家の城は上田城だけではありません。
そもそもこの上田合戦が勃発したのは沼田城を引き渡さないからです。昌幸たちが上田城で徳川軍を迎え撃っている間、じつは沼田城にも北条氏が数回に渡って攻撃を仕掛けていました。
しかし昌幸の叔父にあたる城代・矢沢頼綱が見事に防ぎきり、撃退に成功しています。叔父上すごすぎ。

まとめ

なお「第一次上田合戦」は徳川軍との戦いではありますが、家康本人は参戦してません。
また信繁もドラマではがっつり参戦していますが、じっさいには参戦していない可能性が高いといわれています(100%してないともいいきれないんですけど)。
それから上杉景勝が6500人ほど援軍を差し向けていますが、合戦には参加しませんでした。この兵力を加えていれば数の上では逆転してたんですけどね。

いずれにしても、「第一次上田合戦」は自軍の3倍以上の兵力を持つ徳川軍に対して、真田昌幸・信幸父子が知略を用いて完全勝利をあげた戦いです。
そして昌幸がすごいのは、この合戦の最中にじつは秀吉に連絡をとっている点です。最悪の場合、仲裁を頼もうと思っていたのかもしれません。二手三手先を読んでますよね。

ドラマではどう描かれるか、いまから楽しみでなりません!

[追記]
解説マンガも公開しています!

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