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真田幸村(真田信繁)ってどんな人?(おもな出来事をまとめた年表)

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今日は真田信繁(幸村)の生涯を振り返るために、彼と彼のまわりに起きた出来事などを年表にまとめました。
こうして信繁の生涯の浮き沈みをグラフにしてみると、最後の最後に花道が用意されていて、(まあ死んじゃうとはいえ)クライマックスが最終回という、ドラマの主人公としては申し分ない人生ともいえますね。「あしたのジョー」みたい。

大河ドラマ『真田丸』は1582年(天正10年)3月からはじまりますが、信繁はその3年後の1585年(天正13年)から上杉家、羽柴家(豊臣家)での人質生活を送ることになります。
ようやく父・昌幸のもとに戻ったかと思うと、「関ケ原の戦い」で敗れ、父とともに九度山に幽閉されます。

上のグラフを見てもわかるように、信繁の人生の大半は、人質か幽閉なんですね。
とくに九度山で蟄居していた1600年(慶長5年)から「大坂の陣」でふたたび歴史の表舞台に登場する(というか信繁はそれまで無名だったのでこれが初登場といってもいい)1614年(慶長19年)までの14年間は、歴史的にはなんにも残っていない期間ですが、当然そこには真田親子の日常があったわけで、むしろここにこそ三谷脚本に期待しちゃいますね。
じっさい信繁はこの配流生活中にめっちゃ子作りしてますし。

信繁は正室のほかに、3人の側室がいました。
子どもの数は諸説ありますが、4男9女と13人もいて、父・昌幸の11人、兄・信幸の6人よりも多いんです。ビッグダディ。
四女までは上田で生まれ、長男の幸昌(大助)以降は九度山で生まれていることから、九度山では退屈でほかにすることなかったのかなあと思ったり。

なお、正室は大谷吉継の娘です(姪や養女など諸説あり)。側室には豊臣秀次の娘のほか、堀田興重の娘(『真田丸』では「梅」)、高梨内記の娘(『真田丸』では「きり」)がいます。
ほかにも農家の娘と子どもをつくってたりもするんですが、『真田丸』ではどこまで描かれるのか後半のドラマがいまから楽しみだったりします。

そして年表にまとめてあらためてびっくりしたのですが、ドラマはすでに9回を終えてるというのにまだ1582年(天正10年)の10月末なんです。8ヶ月しか経ってません。

それでもこの歴史的にも大きな転機となり、激動の一年だった1582年(天正10年)をこんなに丁寧に描いたという点で、『真田丸』はほんとにすごいなと思ってます。
どうやら合戦シーンは「大坂の陣」まで描かなそうなので(忍城攻めも割愛されそうだけどどこまでやるんだろう)、今後の見どころは昌幸と秀吉のやり取り、信幸と徳川家とのやり取り(小松姫との婚姻)、そして真田家の家族会議「犬伏の別れ」でしょうね。

個人的には九度山編を何週やってくれるのかがいちばんの楽しみだったりします。1か月くらいかけて日常劇をやってくれないかなあ。

真田信繁の生涯(と関連するトピック)

西暦(元号) 年齢 信繁と真田家にかんする出来事 その他の出来事
1567年(永禄10年) 1 信繁、甲府で生まれる(諸説あり)。幼名、弁丸。通称、源次郎。  
1568年(永禄11年) 2    
1569年(永禄12年) 3    
1570年(元亀元年) 4   7月30日、「姉川の戦い」で織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が交戦する。
1571年(元亀2年) 5    
1572年(元亀3年) 6 父・昌幸が武藤家を継いで武藤喜兵衛を名乗る。 12月、「三方ヶ原の戦い」で武田軍が徳川軍を破る。
1573年(天正元年) 7 武田勝頼、昌幸らを長篠城救援に派遣する。 4月、武田信玄が病死。武田勝頼が家督を継ぐ。
1574年(天正2年) 8    
1575年(天正3年) 9 「長篠の戦い」で叔父(昌幸の兄)にあたる信綱、昌輝が戦死したため、昌幸が真田家に戻り家督を継ぐ。
信繁は昌幸とともに岩櫃城に移ったと考えられる。
 
1576年(天正4年) 10    
1577年(天正5年) 11    
1578年(天正6年) 12   上杉謙信が死去。家督相続をめぐる「御館の乱」が起こり、上杉景勝が家督を継ぐ。
1579年(天正7年) 13    
1580年(天正8年) 14 昌幸、沼田城の攻略に成功。以降、沼田領は真田家が支配する。
昌幸、従五位下・安房守に叙任する。
 
1581年(天正9年) 15    
大河ドラマ『真田丸』はここから
1582年(天正10年) 16 3月、信繁は新府城から帰国を許され、信幸や母・山之手殿とともに真田領に帰還。
昌幸、織田信長に臣従し、滝川一益の与力武将となる。
6月19日に一益が「神流川の戦い」で北条氏直に敗れ逃走すると、21日に叔父の矢沢頼綱を送り込んで沼田城を奪回し、同時に信幸を岩櫃城に送って上野方面の守備を固める。
信繁は一益の人質に、さらには木曽義昌の人質になるも、9月に帰国。
その後、昌幸は6月24日頃に上杉家に、さらに7月9日には北条家と臣従先を変えるが、9月25日に徳川家康に従属することを選ぶ。
3月11日、勝頼・信勝父子が自刃し、武田家滅亡。
6月2日、「本能寺の変」で織田信長が横死。6月13日、「山崎の戦い」で羽柴秀吉が明智光秀を破る。6月27日、清洲会議が開かれる。
10月29日、織田信雄の仲裁により北条氏直は徳川家康と和睦。和睦の条件として、上野国を北条氏が領有することを認め、沼田領は北条家に引き渡されることに。
1583年(天正11年) 17 徳川家の支援を得て上田城築城開始。 4月、「賤ヶ岳の戦い」で羽柴軍が柴田軍を破る。
1584年(天正12年) 18 昌幸、室賀正武を暗殺。 3月、「小牧・長久手の戦い」がはじまり、秀吉と信雄・家康連合軍が交戦する。
1585年(天正13年) 19 7月15日、昌幸、沼田割譲問題で家康と決別し、上杉家に臣従。
信繁、上杉家の人質として預けられるが、景勝は家臣の待遇で迎えた。
「第一次上田合戦」で約7,000の徳川軍を撃破。
秀吉が関白となる。
1586年(天正14年) 20 7月、家康が昌幸征伐のために甲府に出陣するも、8月7日に秀吉の調停を受けて停戦。
11月4日、秀吉の命令で昌幸は家康の与力大名となる。
景勝、家康、ともに秀吉に臣従。
9月9日、秀吉は豊臣の姓を賜り、12月25日には太政大臣に就任。
1587年(天正15年) 21 昌幸、上洛して正式に秀吉に臣従。
信繁、羽柴家の人質として大坂に出仕。
信幸、本多忠勝の娘で家康の養女となった稲(小松姫)を妻にする。
秀吉、九州平定。
1588年(天正16年) 22    
1589年(天正17年) 23 秀吉の裁定により沼田領問題はひとまず解決。利根川を境に真田家と北条家で分割統治することに。
北条氏家臣の猪俣邦憲が名胡桃城を攻略(名胡桃城奪取事件)。惣無事令違反として、秀吉は小田原出兵を宣言。
信繁、この頃に秀吉の家臣に取り立てられる。
 
1590年(天正18年) 24 信繁、昌幸・信幸とともに「小田原征伐」に参加。松井田城攻め、忍城攻めなどに加わる。信繁はこれが初陣となる。
信繁、この頃に堀田作兵衛の妹を娶ったと思われる。
7月16日、北条家滅亡。秀吉、天下統一。
1591年(天正19年) 25    
1592年(文禄元年) 26 信繁、昌幸・信幸とともに肥前名護屋城に在陣。 「文禄の役」
1593年(文禄2年) 27    
1594年(文禄3年) 28 秀吉、渡海しなかった代償として真田親子に伏見城の普請を命じる。
11月2日、秀吉の推挙で信幸に従五位下伊豆守と豊臣姓、信繁に従五位下左衛門佐と豊臣姓が与えられた。
信繁、大谷吉継の娘(一説に養女)を正室に迎える。
 
1595年(文禄4年) 29    
1596年(慶長元年) 30   「慶長の役」
1597年(慶長2年) 31    
1598年(慶長3年) 32   8月18日、秀吉が死去。
1599年(慶長4年) 33    
1600年(慶長5年) 34 7月、昌幸、家康に従い上杉討伐軍に加わる。道中、石田三成が挙兵し、下野国犬伏で三成から書状を受け取った昌幸は討伐軍を離脱して信繁と西軍に参加し、信幸は東軍に(犬伏の別れ)。
9月6日、「第二次上田合戦」で約3万8000の徳川軍を撃破。
信繁、昌幸とともに死罪の命がくだされるが、信幸と本多忠勝の助命嘆願により、高野山への蟄居となる(配流先は九度山に代わる)。
上田領、沼田領は信幸に与えられる。
「関ケ原の戦い」で家康率いる東軍が勝利する。
1601年(慶長6年) 35 信幸、昌幸との決別を示すために名を「信之」と改める。  
1602年(慶長7年) 36 この頃に嫡男の幸昌(大助)が誕生。  
1603年(慶長8年) 37   家康、征夷大将軍となる。
1604年(慶長9年) 38    
1605年(慶長10年) 39   徳川秀忠が二代将軍となる。
1606年(慶長11年) 40    
1607年(慶長12年) 41    
1608年(慶長13年) 42    
1609年(慶長14年) 43    
1610年(慶長15年) 44    
1611年(慶長16年) 45 6月4日、昌幸が九度山で死去。  
1612年(慶長17年) 46 信繁、出家して好白と名乗る。
次男、守信(大八)が誕生
 
1613年(慶長18年) 47    
1614年(慶長19年) 48 信繁、豊臣秀頼の依頼に応じ10月9日、九度山を脱出し、翌日に幸昌とともに大坂城に入城。
「大坂冬の陣」では真田丸を築き(11月15日完成)、赤備えの軍を率いて奮戦する。
7月、方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川氏と豊臣氏の関係が悪化する。
1615年(元和元年) 49 信繁、家康から寝返りの条件として「信濃一国40万石を与える」と提示されるがこれを断る(諸説あり)。
「大坂夏の陣」で家康本陣に突入するも5月7日、討死(安居神社)。
幸昌は秀頼を警護していたが、5月8日に秀頼・淀殿母子とともに自刃。
 

ほんとはそれぞれの側室と結婚した年とか、子どもが生まれた年も入れたかったんですけど、信繁はそういう記録が残るほどの武将じゃなかったみたいで、ぜんぜんわかりませんでした。
(まあ信繁本人の誕生年すら曖昧ですからね)

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