攻城団ブログ

日本の歴史をまるごと楽しむためのブログ。ここでしか読めない記事ばかりです。

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お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

雪 の検索結果:

京都国立博物館で開催される特別展「日本、美のるつぼ―異文化交流の軌跡―」の報道内覧会に行ってきました

…で見てください。あと雪舟の「天橋立図」は6月10日(火)~15日(日)のごく短期間だけ展示されますのでご注意ください。 今日は音声ガイドの無料貸出があったのですが、冨永愛さんがナビゲーションをされています。とても聞きやすく、作品の解説以外にも隠しメニュー(?)として学芸員との対談みたいなのもあっておもしろかったです。会場で借りれば650円、アプリなら800円です。アプリは会期中何度でも聴けるので、図録を買って帰るなら、家でも聴けるアプリのほうがオススメです。 rutsubo2…

たかまる。の「初心者にオススメする山城の楽しみ方」【後編】

…しく言うと、春は山に雪がなくなった後から暑くなってきたころまで。秋は夏の暑さが落ち着いたころから雪が降る直前まで。もちろん理由があります。冬は雪が降る地域は、晴れていても山には雪が積もっていることがあり、大変危険です。雪が降らない地域でも凍結や霜が降りていたら、転倒の危険があります。そういう理由で冬はあまりおススメしません。 また、夏は虫(蚊、アブ、ハチ、ヒルなど)が沢山出ます。特にスズメバチやヒルは危険極まりないので要注意です。さらに草花や木々が旺盛ですので、道が険しくなっ…

攻城団テレビで「復活大名」について話をしました

…臣・戸次鑑連(立花道雪)に気に入られて彼の娘・誾千代と結婚して婿養子に入り、戸次家の家督を継ぎます(のちに立花に改姓)。なお、宗茂は名前を何度も変えていることでも有名な人で(大久保先生のマンガ「猛将妄想録」にもそんなネタがあります)宗茂と名乗ったのは晩年なのですが、ややこしいので動画も記事も宗茂で統一しています。 宗茂は秀吉の九州征伐(島津討伐)で活躍したので、大友氏から独立した直臣大名として取り立てられます。その後は豊臣大名として朝鮮出兵などにも参加したものの、関ヶ原の戦い…

【現在1984城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧

…日 古河城 御城印 雪華ver 第弐版 古河城(茨城県古河市) お休み処 坂長 300円 印刷 はがきサイズ 2021年3月1日 高松城 御城印 高松城(香川県高松市) 披雲閣(管理事務所窓口)、玉藻公園 東門料金所、玉藻公園 西門料金所 300円 印刷 縦16㎝、横10.5㎝ 2021年2月28日 小丸山城 御城印 小丸山城(石川県七尾市) あおカフェ 300円 印刷 2021年2月27日 小見川城 御城印 小見川城(千葉県香取市) 寺嶋陶苑、道の駅 水の郷さわら、千葉ポ…

城葱さんの「城もなか」道中記【福山城編】

…別名を使う。例えば、雪の椿城という名の城もなか。甲斐上野城の城もなかだけど、椿城という別名でネーミングしている。 参考:雪の椿城 あんは、粒あん。粒がはっきり見え、粒の感じが強いあんと言えるかもしれません。粒感が残り、ペーストの要素が少ないと、水気が少なく、皮がしっとりしにくいという工夫ではないでしょうか。また皮との接点も少なく、皮と一体化しにくいことから、パカっと割った写真のように皮が非常に簡単に分離できます。比較的パリパリ感が維持されて食べられる城もなかです。 買ったとこ…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】読者からの質問とその回答

…りをした際、とくに大雪が降ったわけでも無かったのに、雪の壁に阻まれてしまいほとんど何も見えませんでした。陣屋を使っていた当時、雪が本格的に積もった場合はどのように対処していたのでしょうか?(jjianjieさん) 戸切地陣屋は現在除雪しておらず、土塁に囲まれ雪の逃げ場が無い上に木々の陰になるため融雪が進まず、一度積もり始めると、冬季の間はおいでいただいた時のように基本的に雪に閉ざされてしまいます。申し訳ありません。 ただ、これは雪国にお住いの方であるとおわかりいただけると思い…

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編♯5】

…います。春の桜の花吹雪がまとう忍城のようです。イチゴチョコは半分だけなのがまたいい!半分はサブレとイチゴチョコ、半分はサブレのみと一つのサブレで2度の味わいを楽しめる。 サブレも形だけでなく、表面にも凹凸で城を表現しているところも手が込んでいる。パッケージにある忍城イラストの一部透明になっているところからのぞく城サブレ。清々しいブルーの袋がクール。なお、冬は、ホワイトチョコがかかった冬の忍城バージョンがあるようです。 箱買いする時には、ぜひこの5枚入りハンディーBOXを選んで…

【プレゼントあり】日帰りで行ける福島の城と城下町めぐり〈CJ Monmo〉

…藩主の保科正之氏が、雪国ならではの低温や積雪に耐えられる瓦の開発を命じたことから生まれた。鉄分を多く含んだ釉薬を加えることで、瓦に水分を染み込ませない効果がある。現在、この赤瓦を用いた天守閣を見られるのは全国でも会津若松城だけ 優美な五層の天守を誇る、難攻不落の名城 会津若松城の始まりは至徳元(1384)年。葦名直盛氏が東黒川館を築いたことに由来する。その後、文禄2(1593)年に蒲生氏郷氏が入城し、天守閣を建てて「鶴ヶ城」と命名。以降、代々の城主によって治められてきた。明治…

たかまる。さんの連載「家康の合戦」の最終回を記念して攻城団テレビで生配信しました

…、家康という人は太原雪斎や今川義元にはじまり、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉と多くの人からさまざまなことを学んだのだろうと思います。 余談ですが高天神城を紹介する際の定型句にもなっている「高天神を制する者は遠江を制する」という言葉の出典はご存知ですか?掛川市のサイトにも 1571年、遠江への侵攻を本格的に開始した信玄は、「高天神を制する者は遠江を制する」と言われた徳川方の高天神城をものにすべく攻め入る。https://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/…

細川玉子さんによる「京田辺伊賀越えスタンプラリー」参加レポート

…家康様ご一行や穴山梅雪様ご一行も、この辺りを通ったと伝わっております。 お次は「寿宝寺(じゅほうじ)」へ。とても静かで穏やかな場所です。 collection.kojodan.jp 無事にスタンプも頂戴いたしました。 古くは「山本の大寺」と称せられ、重要文化財に指定されている"十一面千手千眼観音立像"をご本尊とされております。そして、寿宝寺の十一面千手千眼観音立像様は、長岡京市の楊谷寺(柳谷観音)と同じ木から彫られたといわれているそうで、眼病平癒祈願に霊験があるとも伝わります…

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編#3】

…上野城の城もなか 「雪の椿城」(瓦屋) 雪の椿城は、甲斐上野城の城もなかで、甲斐上野城が「椿城」と呼ばれたことから雪の椿城というネーミング。ふつうなら「〇〇城もなか」と名付けたくなるところを、あえて「雪の椿城」と生菓子のような名前でカッコいい!!雪がついているのは、なぜなのか……。 税込152円 椿がより美しく輝くシーズンの冬を暗示しているのか? 椿と言ったら確かに寒い季節、むしろ雪の中で咲いているイメージがある。椿と冬、雪は相性が良い。それともあんが白あんであることから、白…

細川玉子さんによる神君伊賀越えの紹介

…家に仕えていた穴山梅雪様も武田家を離反され、織田徳川の連合軍につきます。内応する条件として、人質の逃亡と甲斐一国の拝領、さらに武田氏の名跡継承を条件に、家康様の誘いに乗り、信長様に内応。甲州征伐の際に、貢献したと伝わっております。 その後、多くの家臣の離反も起こり、1582年(天正10年)3月に、武田勝頼様が自刃され、甲斐武田氏は滅亡。家康様も活躍が認められ、信長様より、駿河・遠江の両国(現在の静岡県)を進呈され、梅雪様も本領を安堵される形となりました。こうして家康様と梅雪様…

【家康の合戦】高天神城の戦い 武田vs徳川の攻防戦!

…らずか、穴山信君(梅雪)を使って小笠原に対して降伏を勧めます。小笠原がそれに応じなかったため、5月末より攻撃を開始。周辺の曲輪から徐々に落としていき、5月28日には本曲輪、二の曲輪、三の曲輪などが残るのみとなり、さらに6月10日には堂の尾曲輪が落ち、本曲輪と二の曲輪を残すのみとなってしまいました。援軍要請されていた信長はようやく6月14日に岐阜を出立し、6月17日には三河吉田城に入城しました。 しかし、高天神城の小笠原はもう耐えきれないと判断し、6月17日に降伏、開城しました…

【家康の謎】家康はなぜ今川家でそんなに優遇されたの?

…そも義元の軍師・太原雪斎(たいげんせっさい)が教育を施したとされるエピソードから言っても、義元は家康を「将来の今川氏を支える優秀な一門衆候補」と見なしていたのではないか。 また、松平広忠が死んで家康が三河に不在だった時期、三河の上級武士たちは家康を通り越して義元と直接主従の関係を結んでいたのだが、家康は1559年(永禄2年)にこの上級武士たちと関係性を結び直していたことがわかっている。もちろんその家康の上には今川の重臣がいて、さらには義元がいるわけだが、家康が通説で語られるよ…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…に助けを求める 太原雪斎が安城城を攻略、生捕りにされた信広と竹千代を交換、そのまま竹千代は駿府に 1555年(天文24年)、14歳 3月、14歳で元服して元信 今川義元から偏諱を賜う @今川家での家康は松平家当主として英才教育された、VIP扱い →そもそも当主の立場なので人質という表現はおかしい →逆張り的に「家康は普通の人、凡人」という評価もあるけど、それなりに優秀だったから義元は一門扱いにしたはず 1556年(弘治2年)、15歳 関口義広(親永または氏純)の娘(築山殿/瀬…

「戦国合戦の基礎知識」の動画を公開しました

…に戦ができないとか、雪国の場合は道が通れるうちに帰国しなければならないとか、時間的な成約もある中で選択せざるをえない状況もあったようです。逆に大規模な軍勢で長期戦ができるようになれば水攻めなどの兵糧攻めが可能になるわけですね。 【戦国合戦の基礎知識】軍師の役割 軍師というと奇襲を成功させたり、少数の兵で大軍相手に勝利するなど三国志の諸葛亮孔明のような天才軍略家をイメージしがちですが(その孔明も「三国志演義」というフィクションベースなのですが)じっさいにはいろんなタイプの軍師が…

【家康の城】江戸城 世界有数の一大城郭と城下町!

…聞集」によると天守は雪の嶺のように白かったと書かれていることから、白漆喰総塗籠の白亜の天守であると考えられます。つぎに、本丸南の城門は城壁を外側に張り出して互い違いにした出入り口である「外枡形」が連続している、いわゆる「連続外枡形」の形式となっています。外枡形は信長の安土城黒鉄門や、秀吉の豊臣大坂城本丸桜門などに使われた形式で、これを連続させて用いて防御機能を高めていることがわかります。最後は馬出です。馬出は城門の前の堀の対岸に橋でつないだ一定の区画のことを言い、甲斐の武田氏…

それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い)

…。すると、国衆たちも雪崩を打って裏切りを始める。これによって勝頼は追い詰められ、織田信長による甲州征伐を支えきれなくなり、折角の新府城を捨てて岩殿城へ逃げようとしたところ、やはり親族にあたる小山田信茂(おやまだのぶしげ)に裏切られ、織田軍に攻められて自害へ追い込まれた。・長篠の戦いは確かに武田滅亡への大きなターニングポイントではあったろうが、それだけで滅亡したわけではない。多方面に敵を増やしすぎたこと、その戦いの中で領内と家臣に負担をかけすぎたことが原因で、最終的には信用出来…

名古屋城で開催中の企画展「初公開 門外不出 巨大杉戸絵」取材レポート

…表書院と対面所の間 雪中柴垣図杉戸絵(重要文化財)=鷺之廊下と上洛殿の間 花車図杉戸絵(重要文化財)=上洛殿の廊下の途中 の仕切りとして使われました(これは前期のもので、後期は入れ替えです)。具体的にはここです。 たとえば最後の杉戸は建物間ではなく廊下の途中という珍しいケースですが、上洛殿の廊下にあるあの見事な欄間彫刻の下にはめられてました。 つまり単に建物間のドアや仕切りとしての意味合いだけでなく、杉戸の両側が別空間であること、杉戸そのものが視覚的に境界(その向こうがより格…

城葱さんの「城もなか」道中記【福井県編】

…ようです。透明で桜吹雪のパッケージを天空の城の写真が隠しており、チラ見せ効果なのか、少し見える石垣、お城もなかの足元が、気を引くパッケージ。衝立や簾のような、日本らしい目隠しとその僅かな空間から見せる気配を感じる、というものに通じそうな気がしました。 あんは粒あんにマーガリン!!あんこにマーガリンは合うよね-。悪魔的な取り合わせを城もなかで実現している。小倉マーガリンのパンとかめちゃくちゃ好きなので、ついに城もなかで形にしてくるものに出会ったかと、興奮しました。 皮が八田屋さ…

【戦国軍師入門】立花道雪――輿で戦場を駆けめぐった、雷神の生まれ変わり

…する。その名は立花道雪(たちばな どうせつ)。しかし、これは名門立花家の門跡を継いで、さらに出家した後の名前で、それ以前の名前は戸次鑑連(べっき あきつら)という。 彼はその生涯において九州各地を転戦し、様々な戦いを繰り広げているが、その姿は実に特徴的なものだった。道雪は馬ではなく輿(こし)に乗って戦場を往来したのだ。これについてはひとつのエピソードが伝えられている。 それはとある夏の日のこと、道雪は急に降り出した雨を避けて大樹の下で雨宿りをしていた。この時、突然雷鳴が轟いて…

【戦国軍師入門】角隈石宗――秘伝を火中に投じて散った軍配者の無念

…支えた名軍師・立花道雪は彼の弟子で、師弟で大友家のために尽力した、ということになる。 彼の仕えた宗麟は有名なキリシタン大名だが、石宗はすでに述べたとおりに出家していた。さらに軍配者であったことから、陰陽道などの古い日本の伝統を重視していたこともあって、キリスト教には反対の姿勢を貫き続けた。その結果、宣教師のルイス・フロイスは彼のことを「不明の徒」と評し、かなり敵視していたという。 こうして様々な逸話を持つ石宗にまつわる最も大きな事件は、彼にとっての最後の逸話でもある。1577…

【戦国軍師入門】鍋島直茂――野心なくして遂げた下克上

… せきそう)や立花道雪(たちばな どうせつ)が仕えた大友家、秀吉の九州征伐に頑強に抵抗した島津家、そして龍造寺(りゅうぞうじ)家だ。龍造寺家は隆信(たかのぶ)が当主の頃に全盛期を迎え、肥前(現在の佐賀県及び長崎県の一部)・肥後(現在の熊本県)・筑後(現在の福岡県南部)・豊前(現在の福岡県東部及び大分県北部)に勢力を伸ばした。そして、その隆信を支えた軍師が鍋島直茂(なべしま なおしげ)なのだ。 直茂は龍造寺家家臣の鍋島清房(なべしま きよふさ)の息子として生まれる。隆信の従兄の…

【戦国軍師入門】太原雪斎――家康にも影響を与えた、今川家の軍師僧

…師でもあったのが太原雪斎(たいげん せっさい、崇孚(そうふ))だ。 義元は駿河の名門今川家の当主・今川氏親(いまがわ うじちか)の五男で、本来は家督を継ぐべき人物ではなかった。そのため出家させられた彼には、同時に教育係がつけられた。それが雪斎だった。彼は今川家の重臣の息子で、最初は駿河の、次は京都の寺で修行をしていた。この頃の名を九英承菊(きゅうえいしょうぎく)という。しかし氏親によって駿河に呼び戻され、義元(幼名は芳菊丸(ほうぎくまる))と共に寺で過ごす。この生活の中で、雪…

【戦国軍師入門】人取橋の合戦――槍の功でも主君を救った軍師

…本松城を攻めるが、降雪に悩まされて戦いが長引く。そして致命的な事態が起きた。輝宗の死を知った宿敵・佐竹氏が蘆名氏を始めとする諸勢力を集めて攻めてきたのだ。 決戦の場となったのは本宮城外の観音堂山の付近である。この時、連合軍は兵力2万5千(3万余とも)。それに対して伊達方はわずか8千と、戦力的には圧倒的に不利だった。実際、伊達勢は一方的に押しまくられ、敵兵は政宗のいる本陣にまで押し寄せた。慌てて駆け付けた景綱も敵の数の多さになかなか近づけない。 そこで一計を講じた景綱は、なんと…

【戦国軍師入門】秀吉の四国征伐――官兵衛の策略でスピード勝利

…軍が3方向から一気に雪崩れ込んだ。しかし、元親も四国を統一した英雄だ。十分な備えはあった。彼は阿波の白地城(はくちじょう)に本拠を構え、海岸線沿いの防備を構えて秀吉軍を待ちかまえる。 こうして四国征伐軍は3方に分かれて進撃したわけだが、その中でも讚岐から侵攻する軍に対して、元親は植田城という小城を利用して撃退することを考えていた。この城は讚岐と阿波をつなげる重要な拠点だったが、同時に攻めにくい城でもあった。ここに敵を誘い込んで時間を稼がせ、その隙に自分の軍でもって後ろから攻め…

【戦国軍師入門】今山の戦い――奇襲を成功させ、会心の勝利

…迂回しながら山の頂上まで登り、そこから一気に駆け下りて本陣に雪崩れ込んだのだ。あっという間に大混乱になる中、大友軍の大将・大友親貞(ちかさだ=宗麟の弟とも甥ともいう)が討ち取られ、これが全軍に伝わると同時に総崩れとなってしまう。直茂、まさに会心の勝利となった。 訓練された兵であっても、やはり油断しているところを夜襲され、また本陣が潰されてしまうと脆いのは変わらないのがこの戦いからよくわかる。そして、そこを的確に突くために味方をまとめることができるのが、名将・名軍師の証なのだ。

【戦国軍師入門】秀吉の中国攻め――「両兵衛」による3つの城攻め

…だった。彼は鳥取が豪雪地帯であることから、11月あたりまで時間を稼げばそれで十分秀吉を撤退させられると考えていたようだ。そして、鳥取城はそのくらいの時間を優に稼げる堅城のはずだった。けれど、その思惑は脆くも崩れる。 ここで秀吉は官兵衛の進言を聞き入れて再び兵糧攻めを試みたのだ。この戦法は無理押しするより遥かに味方側の被害が少ないのだが、時間がかかるのが難点だ。実際、三木城攻めの際は様々なトラブルがあったとはいえ、2年の月日が必要だった。 それでも官兵衛と秀吉がこの作戦をとった…

【戦国軍師入門】耳川の戦い――受け入れられなかった主君への進言

… せきそう)と立花道雪を始めとする部下たちが強く反対する。占いによって合戦の吉凶を占う軍師である石宗は不吉を理由に、またその弟子である道雪も占いを無視することの危険さを理由に、主君を説得する。 この時に道雪は、島津を攻めることは時期尚早と見て、それも主君を制止する大きな理由となっていたようだ。それでも宗麟は結局総勢4万5千の大軍を動かして出陣してしまった。実際に両軍が衝突したのが耳川という川の周辺だったため、この戦いは「耳川の戦い」と呼ばれている。まず大友軍は高城という城を攻…

【戦国軍師入門】北九州をめぐる戦い――小早川隆景・立花道雪の激突

…)、大友側には立花道雪(当時は戸次鑑連(べっき あきつら)と名乗っていた)という、それぞれ戦国時代を代表する名軍師・知将が参加し、その知略を激しく戦わせていたことだ。小早川隆景は元就の三男で小早川家に養子として入り、「毛利の両川」として本家を支えた、知将として名高い人物だ。元々水軍に縁の深い小早川家を率いて活躍した。一方の立花道雪は、この後でも述べるが大友家を支えた名軍師として諸国から畏怖された人物だ。この2人が激突したのだから、まさに戦国時代ファン垂涎の戦いと言える。 戦い…

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