攻城団ブログ

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お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

戸切地陣屋 の検索結果:

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】読者からの質問とその回答

…にわたってお届けした戸切地陣屋の連載ですが、読者からたくさんの質問をいただきました(こうのからもひとつ質問を追加)。現地のこと、連載内容に関すること、そこから派生した稜堡式城郭全般に対する質問など、さまざまな角度からの問いに対して時田学芸員が答えてくださっています。約18000字におよぶ、読み応えたっぷりの質疑応答となっていますので、ぜひお読みください! 読者からの質問とその回答 Q.時田学芸員が「現地でここは必見」とオススメできる見どころを教えてください(匿名希望さん) や…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】5.おわりに

…も今回で最終回です。戸切地陣屋を訪問したことのある方も、まだない方も非常に興味をそそられる内容だったのではないでしょうか。西洋式の城郭を日本の城の常識で測ること自体がナンセンスで、今回あらためてヨーロッパにおける築城術の歴史や系譜を知ることができたのは有意義でした。ぼくも早く自分の目で戸切地陣屋を見てみたいです! 前回の記事:4.「早すぎた」洋式軍学理論のゆくえ-戸切地陣屋、そして「日本の稜堡式城郭・堡塁」のその後 冒頭でもお話したとおり、戸切地陣屋の知名度は極めて低く、また…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】4.「早すぎた」洋式軍学理論のゆくえ-戸切地陣屋、そして「日本の稜堡式城郭・堡塁」のその後-

…築城術を学び、見事に戸切地陣屋として具現化した藤原主馬でしたが、それで勝てるほど戦争は甘くはありません。勝敗は城や兵器をどう運用するかで決まるのに、残念ながら多くの藩士にとって主馬が江戸で学んできた理論や藩主・崇広の推し進めた施策は当時の理解を超えたものだったようです。せっかくの〈日本初の星形城郭〉もその真価を発揮することなく、その役割を終えることになります。 前回の記事:3-3.「日本最初の星の城」の原典への旅(3)-「野崎の丘」に実を結んだ19世紀フランス「砲戦の時代」の…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】3-3.「日本最初の星の城」の原典への旅(3)-「野崎の丘」に実を結んだ19世紀フランス「砲戦の時代」の防衛構造・戸切地陣屋-

…とがわかります。では戸切地陣屋はどのくらい忠実に教本の内容を反映しているのか。時田さんの調査によれば城が築かれた「野崎の丘」の自然地形もうまく活用し、かなり正確に再現していると言えるそうです。 前回の記事:3-2.「日本最初の星の城」の原典への旅(2)-戸切地陣屋の基礎テキスト「サヴァール教本」とその時代的背景- では、サヴァール教本の内容と戸切地陣屋の構造とを、実際に見比べていきましょう。 まずは星形本陣からです。サヴァール教本の全313章から「Gebastioneerde…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】3-2.「日本最初の星の城」の原典への旅(2)-戸切地陣屋の基礎テキスト「サヴァール教本」とその時代的背景-

戸切地陣屋は「サヴァール教本」を手本に築かれた――文章にするとわずかですが、これまでに見たことのない文章ですし、戸切地陣屋の価値が凝縮された文章でもあります。日本の城が基本的にその土地にあわせてカスタマイズして築かれるのに対して、戸切地陣屋はこういう土地にこの形で築くべきという「教本(原典)」をもとに築かれた、まさに根本から考え方が異なるお城なのです。 前回の記事:3-1.「日本最初の星の城」の原典への旅(1)-戸切地陣屋へと連なる「星の城の系譜」…パガン、ヴォーバン、そして…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】3-1.「日本最初の星の城」の原典への旅(1)-戸切地陣屋へと連なる「星の城の系譜」…パガン、ヴォーバン、そしてサヴァール-

…「日本最初の星の城」戸切地陣屋の防衛構造の概略 これまで、日本における星形城郭・台場(五稜郭・戸切地陣屋、あるいは四稜郭など)について、その特徴的な形状から西洋の稜堡式築城術に基づくものであるということは言われても、その原典……一体どのようなテキストの、どのような理論および技術体系に則って造られたか……についての具体を明らかにしようとするアプローチはほぼ皆無であったといえます。 この研究的欠落を埋めるべく、一昨年度(令和4年度)より、戸切地陣屋跡に現存する本陣遺構の考古学的分…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】2.「日本最初の星の城」戸切地陣屋の防衛構造の概略

いよいよ戸切地陣屋が築かれます。日本初の稜堡式城郭ですがその稜堡はひとつしかありません。しかしあらためて地形や大砲などの射程距離を踏まえるとこれは「ひとつだけで十分」という評価になるそうです。ヨーロッパの軍学を取り入れた戸切地陣屋がどのようにここを拠点に防衛しようとしたのか、その構造についてじっくり説明していただきます。今回は図解もたっぷりです。 前回の記事:1-3.戸切地陣屋ができるまで(3)-松前崇広・藤原主馬の軍制改革と、その「思わぬ」結末- 西方を「アナタヒラの崖壁」…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】1-3.戸切地陣屋ができるまで(3)-松前崇広・藤原主馬の軍制改革と、その「思わぬ」結末-

…前回の記事:1-2.戸切地陣屋ができるまで(2)-北の守人(もりびと)、父・藤原正蔵と息子・藤原重太(主馬)- こうして重太は象山のもと砲科運用を中心とした洋式軍学を修め上げ帰藩。1853年(嘉永6年)3月25日、藩主・崇広は重太を西洋流砲術師範に任命します。史書に遺る布達を分析すると、この任命以降、藩の軍制改革・海防強化の方針が洋式軍学に基づくものへと大きく転換していることがわかります(この頃、重太は崇広から与えられた「主馬(しゅめ)」に名を改めています)。一方、藩内には洋…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】1-2.戸切地陣屋ができるまで(2)-北の守人(もりびと)、父・藤原正蔵と息子・藤原重太(主馬)-

…前回の記事:1-1.戸切地陣屋ができるまで(1)-「北方防衛」と松前藩の歴史と、英主・松前崇広の登場- 藤原重太(主馬)、そしてその父・藤原正蔵(ふじわら しょうぞう)については、数年前までは名前のみが知られる程度でしたが、戸切地陣屋研究と併行して行った調査により、その歴史的事績が徐々に明らかになってきました(特に父・正蔵に関してはここ1年の研究成果が非常に大きいです)。ここでは、それらについて簡単にご紹介しましょう。 主馬の父・藤原正蔵は、1787年(天明7年)に杉村治孝(…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】1-1.戸切地陣屋ができるまで(1)-「北方防衛」と松前藩の歴史と、英主・松前崇広の登場-

まずは戸切地陣屋が築かれる前日譚として、幕末における松前藩の状況について。ぼくは松前藩が一時期、東北に移封されていたことも知らなかったのですが、蝦夷地へ復領した松前家にとって北方防衛の成否が藩の存亡に直結しており、かなり危機的な状況の中、開明的で優れた藩主が登場します。 前回の記事:はじめに 江戸時代後半・18世紀のロシアの南下以降、蝦夷地近海は露・英・仏・米ら外国船の跋扈するエリアとなり、江戸幕府にとって北方は国土防衛の重要地となりました。同地を領していた松前家は、1807…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】はじめに

…海道北斗市に存在する戸切地陣屋は、知名度こそ高くないものの訪問者の評価も高く、またその歴史的な位置づけにおいても五稜郭に先立って築城された日本初の星形要塞(稜堡式城郭)として大変価値の高いお城です。この連載ではまだまだ知らない人が多い、あるいは存在こそ知っていてもその真価を理解できていないぼくのような人たちに対して、戸切地陣屋の魅力やすごさを北斗市郷土資料館の時田太一郎学芸員に解説していただきます。 北海道北斗市野崎に所在する松前藩戸切地(へきりち)陣屋は、中近世ヨーロッパに…

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