攻城団ブログ

日本の歴史をまるごと楽しむためのブログ。ここでしか読めない記事ばかりです。

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お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

山城 の検索結果:

お城のガイドツアーに「対話型鑑賞」を取り入れていきたい

…ュージアムで巡る和歌山城ツアー〉のワンシーンをご紹介します。ツアー中に見つけた大手門の軒丸瓦の家紋について、ぼくを含む複数の団員でこんな会話をしました。 こうの | 大手門の瓦[和歌山城] 「この軒丸瓦の家紋は見たことないけどなんだろう」「何かしら史実に基づいた家紋だとすればどの家の家紋か」「大手門は浅野時代の途中に作られた(当時は市之橋御門)ので考えられるのは浅野家か紀州徳川家」「いずれかの簡略化された家紋か」「鬼瓦は三つ葉葵だから紀州徳川家に関連した家紋か」「替紋や裏紋の…

城葱さんの「城もなか」道中記【鳥取・島根編】

…!! かつては備中松山城の城もなか「方谷さんもなか」(備中開発株式会社(菓子工房))が、こだわりの限定の厳選小豆「備中大納言」と鬼ザラ糖を使ったビン詰め餡で手作りもなかとして販売されていました。 参考:備中松山城の城もなか「方谷さんもなか」 しかし、この変化の激しい時代の流れの中で、小豆の栽培の継続が難しくなったということで製造が終了。私は、ほんと奇跡的に岡山の城攻めのタイミングが合い、わずかな在庫を手に入れることができたという、思い出深い城もなかのひとつでもあります。 その…

【現在1885城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧

…24年9月28日 松山城 御城印 武蔵松山城(埼玉県吉見町) 岩窟売店、おいでなせえ小川町駅前店 500円 印刷 2024年9月28日 味真野4城 御城印 2024年秋限定版 小丸城(福井県越前市) ハグポポ Hugpopo、万葉館 1000円 印刷 2024年9月21日 三床山城 御城印 2024年秋限定版 三床山城(福井県越前町) 越前町織田文化歴史館 400円 印刷 2024年9月21日 大坂城真田丸 御城印 令和六年秋冬限定 九度山・真田ミュージアム 550円 印刷 …

攻城団のみんなが今年訪問したお城と高評価だったお城

…69 501 3 松山城(愛媛県松山市) 4.21 272 279 4 備中松山城(岡山県高梁市) 4.20 260 262 5 熊本城(熊本県熊本市) 4.20 271 289 6 彦根城(滋賀県彦根市) 4.14 419 440 7 高知城(高知県高知市) 4.10 249 263 8 松江城(島根県松江市) 4.08 305 325 9 竹田城(兵庫県朝来市) 4.07 213 217 10 高取城(奈良県高取町) 4.02 142 144 11 犬山城(愛知県犬山市)…

2023年に訪問して良かったお城

…note.com 周山城をピックアップしてくださってます。写真も多くてめちゃくちゃ魅力的に紹介してくださっているのでぜひ読んでください。ぼくも訪問したいと思ってましたが、これを読んで来年は絶対行こうと決心しました。城たびの現地ツアーに展開できればいいかも。そんなわけで今日はぼくの「今年訪問して良かったお城」記事です。 今年は何城訪問したのか 攻城団は自分が訪問したお城の履歴を管理するサービスなので、簡単に今年の数字をチェックできます。 こんなふうに(↓)管理画面では攻城記録を…

城葱さんの「城もなか」道中記【福山城編】

…かったのは広島県の福山城。今回はエリア周遊ではなく、福山城のみの道中記です。昨年リニューアルして、黒い鉄板が張られた天守が注目されている福山城ですので、これから訪問を計画されている方も多いと思います。訪問された際はぜひ城もなかや城菓子をお土産に買って帰ってくださいね。おいしそうな城もなかの写真とあわせてじっくり楽しんでください!! 今回は、昨年リニューアルして絶対見てほしい鉄板の面が象徴的な福山城を攻めた際に、出会ってきました、福山城の城もなかについてご紹介致します!(ちょっ…

城葱さんの「城もなか」道中記【九州編】

…ひとつで、当時は「内山城」と呼ばれていたようです。島津氏に掌握されてからは伊東氏対抗の国境警備の要として兵を集め、島津義弘が「天ヶ城」と改名したと伝わっています。その後、一国一城令により廃城となりました。別名、高岡城や麓城。(参考:Wikipedia、宮崎県教育庁文化課調査報告書や宮崎市天ヶ城歴史民俗資料館展示、天ヶ城公園見取り図(現地説明版) より) 「天ケ城もなか」(天ケ城茶屋) 140円 皮は、定番の三層角右寄り型です。謎の色違いの線はここにもありました。今回は、天守の…

全国各地で城もなかが進化中! 城もなかの可能性は無限大!

…ルク味の3種類。 富山城抹茶パフェ 城パフェ 富山城 富山県 松川茶屋 650円 城もなかの皮(四層角左寄り型)の片面が添えられている抹茶の城もなかパフェ。あんこ、抹茶わらび餅、抹茶アイス、白玉、生クリームなどが素材としてあり、どれと合わせて城もなかを食べるか楽しめる。あずきは自家製 黒蜜きなこパフェ 城パフェ 富山城 富山県 松川茶屋 650円 城もなかの皮(三層角右寄り型)の片面が添えられていた黒蜜きなこの城もなかパフェ。あんこ、ほうじ茶薫ゼリー、きなこわらび餅、アイス、…

諏訪原城~武田・徳川が奪い合った数奇な山城~

…春(信房)に築かせた山城です。武田勝頼といえば、NHK大河ドラマ「どうする家康」で眞栄田郷敦さんが演じ、大きな話題を呼びましたね。勝頼は、当時徳川家康の勢力下にあった遠江国(静岡県西部)を獲得するため、諏訪原城を遠江国と駿河国(静岡県中部)の国境に築かせました。 1575年(天正3年)に勃発した「長篠・設楽原の戦い」にて勝頼を破った家康は、勢いそのまま諏訪原城を落とし、自身の城としました。武田氏が信仰した戦の神・諏訪大明神から名を取った城名を嫌ったのか、家康は諏訪原城を「牧野…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】1-1.戸切地陣屋ができるまで(1)-「北方防衛」と松前藩の歴史と、英主・松前崇広の登場-

…が本拠地・福山館の福山城(松前城)への改築でした。これは、開府以来200数十年に渡り無城大名に甘んじてきた松前藩にとって未曾有の快挙でした。 kojodan.jp 崇広はこれと並行して、弾薬の5ヶ年計画での増産・備蓄、砲類の材料となる金属の買上と備蓄、台場群の改修、諸武芸の振興などの海防強化策を推進(『湯浅此治日記』などに遺る当時布達群より)。さらにその一環として、藤原重太(ふじわら じゅうた)らを当代の碩学・佐久間象山(さくま しょうざん)が当時新たに開いた洋学塾「五月塾」…

【家康の謎】家康はなぜ伊賀越えしたのか、他のルートはなかったのか?

…とされるのは和泉から山城の宇治田原を通って近江小川へ入り、そこから伊賀を通って伊勢の海岸へ出るルートだ。以後は海路で岡崎に入り、無事逃げ延びたということになる。 この時に家康を助けたのは、伊賀者たちであるとされ、それはいわゆる天正伊賀の乱で織田家に攻撃された際に家康によって保護されたためであるという。しかしそれだけではなく、近江小川で家康一行を保護した多羅尾氏は甲賀の人であって、彼らのような甲賀者も神君伊賀越えには大いに寄与したものと思われる。なお、近年は史料の発見によって「…

中村優希さんによる「〈幻の安土城〉復元プロジェクト・歴史セミナー 安土城復元研究の過去・現在・未来」参加レポート

…えば外観に関して、岡山城天守を参考に復元された櫻井先生初期復元案・内藤先生復元案・佐藤先生復元案と、豊臣大坂城を参考に復元された宮上先生復元案、松江城天守を参考にされた中村先生復元案、均整のとれたシンメトリーな塔建築及び宣教師の記録を重視された兵頭先生案、ウィンゲのスケッチを参考にされた西ケ谷先生案・森先生案、といったようにそれぞれの特色が見受けられます。 安土城天主は外観に関する記録が乏しく、その中で外観を復元するためには何らかの参考資料をもとに推定復元を行うのが合理的だと…

「守護代ってなに?」の動画を公開しました

…門武家です。一時期、山城の守護をつとめたりもしてます(詳しくは「三管四職」の延長回で膨大なリストをつくってますのでご覧ください)。 ・畠山氏の重臣として遊佐(ゆさ。「ゆざ」が正しいともいうが、国史大辞典がゆさなのでとりあえずこっちで)氏という一族がいて、しばしば守護代を務めた。→遊佐氏は出羽に名字の地がある武家。どんな流れで畠山の家臣になったのかはよく分からないが、南北朝時代に遊佐国重(くにしげ)という人は畠山氏に仕えて伊豆守護代、また越前守護代になっているので、この辺が一つ…

【プレゼントあり】日帰りで行ける福島の城と城下町めぐり〈CJ Monmo〉

…にはこのほか二本松〜三春コース、棚倉〜白河コースが紹介されており、さらに攻城団でも評価の高い山城(桑折西山城・向羽黒山城)ものページもあります。 『CJ Monmo』2023年5月号の購入はこちら monmoryouhin.com 『CJ Monmo』〈福島県の城と城下町〉特集号プレゼント この記事で一部を紹介した『CJ Monmo』2023年5月号(4/25発行)を5名の方にプレゼントします! プレゼントの応募受付は終了しました。 kojodan.jp kojodan.jp

細川玉子さんによる「福知山お城まつり」レポート

…くしてくださる【福知山城・明智衆】の皆様には、感謝の気持ちでいっぱいです!此度も大変お世話になりました🙇 福知山お城まつりは、我々が参陣いたしました4月16日の日曜日と、前日の4月15日の土曜日の二日間の開催でした。空模様が少し気になる二日間でしたが、無事に開催されました!特に16日の日曜日は、お祭り終了までお天気も持ち、本当によかったです😊 我々はステージへの出演がありましたので、まずは着替えを完了させ、昼食をいただきました。 とても豪華で美味しいお弁当😊本当にありがとうご…

城葱さんの「城もなか」道中記【千葉県編】

…は千葉県。佐倉城と館山城という南北に位置するお城の城もなかを紹介していただきます。給食のデザートに城もなかがついてくるとか、ちょっとびっくりする話も登場しています。おいしそうな城もなかの写真とあわせてじっくり楽しんでください!! 今回は千葉県の城もなかと出会う旅に出かけてきました。佐倉城の城もなか、そして館山城の城もなかです。千葉県の北と南に各々存在しており、それぞれ独自の存在感を漂わせています。ふたつの城もなかとの出会いもまたとても心に残るものとなりました。 千葉を縦断する…

福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館へ行ってきました

…40分ほど見学しました。 今回は夕方のサンダーバードで京都に戻らなければならなかったので、山城は登れなかったのですが、博物館だけで数時間は楽しめるので、復原町並を見学して、山城まで行こうと思うと一泊二日で計画したほうがいいと思います。 一乗谷朝倉氏遺跡博物館のみなさん、ガイドをしてくれた瀬戸さん、ありがとうございました。朝倉氏についてもっと知りたくなったので、また勉強しに行きたいと思います。 asakura-museum.pref.fukui.lg.jp kojodan.jp

細川玉子さんによる京都御城印サミット開催レポート(2日目)

…は、日本でも最大級の山城であるとのこと。兵庫県丹波市にございます黒井城や、兵庫県篠山市にございます八上城と共に、丹波三大山城のひとつといわれております。 内藤氏が足利尊氏より八木の地を賜り、八木城を築城したと伝えられています。室町時代になると、細川氏が丹波を領国として守護するようになり、内藤氏を丹波守護代として任命。八木城を拠点に、丹波地方へ勢力の拡大を行っていったそうです。その後、父上、明智光秀の丹波攻略が開始。1575年(天正3年)に八木城は落城し、父上の手で城の改修が行…

細川玉子さんによる京都御城印サミット開催レポート(初日)

…ました。さらに、神尾山城の新作の御城印もとても素敵でした。 南丹市様では、八木城の御城印セットが販売され、こちらも大変人気がございました!丹後和紙を使用されており、金、銀、銅に輝く御城印は、飾っておきたいほど美しいなと思いました。 なんと製作に攻城団様も関わられたということで、様々なこだわりが感じられるお品でした。 京丹波町様では、限定版の須知城と中畑城の箔押し御城印が販売されました!きらきらと輝いており、とても豪華でした。さらに、通常版の御城印に”京都御城印サミット”の判が…

「歴史遺産ウォーク in 那珂川『二つの山城跡と菩提寺を巡る歴史ツアー』」開催レポート

…in 那珂川「二つの山城跡と菩提寺を巡る歴史ツアー 〜いざ、武茂氏の山城『武茂城』&『台の館』へ〜」 2月と3月にかけて、栃木県那珂川町観光協会主催で「二つの山城跡と菩提寺を巡る歴史ツアー」が開催されました。このツアーは武茂氏の山城「武茂城址」と松野氏の居館「台の館跡」をめぐりながら、両氏の菩提寺である「乾徳寺」と「松林寺」を訪ねる「歴史遺産ツアー」のひとつとしで行われました。旅のナビゲータを“山城ガールむつみ先生”が務め、町の学芸員がサポートとして同行しました。モニターツア…

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編#4】

…、道はありません。(山城慣れしている城好きさんなら降りれないこともないとは思いますが……)あくまでも、ここはお寺の敷地、来た道を引き返して戻るようにとお寺の方に案内されたので、言われた通りに帰ります。 いつまでも、みんなが安全に、小山田城を楽しめるように。 大庭城の城もなか 「大庭城最中」(丸寿) 税込180円 皮は、三層角中央型。またしても、大庭城には、天守なんて、こんな櫓なんてないんすよーという声が聞こえてきそうですが、そのとおりでイメージのお城をかたどっています。 どち…

【家康の合戦】大坂の陣(冬の陣、夏の陣)豊臣を滅ぼした家康最後の大戦!

…戸城、駿府城、丹波篠山城、名古屋城、丹波亀山城、伊賀上野城、越後高田城などを新たに築き、その他にも城の大改修を進めていきました。いわゆる豊臣包囲網です。 そんな折、1614年(慶長19年)にあの有名な事件が起こります。方広寺鐘銘事件で、大坂の陣の発端と言われています。方広寺は1586年(天正14年)に秀吉が造営したお寺で、1596年(慶長元年)の大地震で大破したものを秀頼が復興させていました。1614年に完成し、8月1日に大仏開眼供養、8月18日に大仏殿竣工式を執り行う予定に…

【家康の合戦】関ヶ原の戦い 豊臣政権の内部抗争

…岐阜城、石川貞清の犬山城、竹ヶ鼻城を前線として軍勢が集結しました。このように尾張・美濃の境目で対陣したのが、関ヶ原の戦いの始まりです。しかし、このとき家康は井伊直政や本多忠勝を軍目付として派兵してはいますが、まだ江戸にいて動きを見せません。それは先にも述べた通り、豊臣公儀から外されて軍事指揮権を持っていないために東軍の諸将を指揮できなかったことと、諸将が離反する可能性、つまりは家康討伐の動きに転じる恐れがあったためと考えられます。しかし、家康が動けるようにした出来事が勃発しま…

知ってる? 水野勝成

…っかけです。 地元福山城の城主だった『水野勝成』は、上水道の整備や全国初の藩札の発行など、良い面をさらっとしか紹介されていないけど、実は・16歳の時、初陣なのに15も首をとった・父に奉公構(ほうこうがまえ=業界出入り禁止)されたが、逃れた先の京都で大喧嘩や殺傷沙汰を起こした・晩年も75歳で島原の乱に息子、孫と一緒に参戦したなど、他にもたくさんの破天荒エピソードがある! こんな破天荒でやばい武将が地元にいたなんて……確かに、なんで誰も知らないんだ? 当時、WEBサイト制作のスク…

【家康の合戦】小牧・長久手の戦い 家康・人生のターニングポイント

…に息子の元助、美濃金山城に森長可が入りました。 一方で家康は、安土城を訪れたのちに立ち寄った堺で、本能寺の変の報せを受けました。危機を感じた家康は伊賀経由で岡崎城へ急ぎかえりました。家康三大危機のひとつにも挙げられる、いわゆる「伊賀越え」です。からくも逃げ帰った家康は明智討伐に出ようとしますが秀吉が討ったとの知らせを受けるや織田領となっていた上野・甲斐・信濃をめぐって北条と争い(天正壬午の乱)、結果として三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五か国を領有する大名となりました。 これで…

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編#3】

…双璧を成す、東京都の山城です。そして甲斐上野城(椿城)のほうは、山梨の武田信玄のお母さんの実家といわれ、今も椿がたくさんある椿城という別名のとおりの城跡です。このふたつの城と城もなかは、どちらも印象的で心震える出会いとなりました。 八王子城の城もなか 「八王子城最中」(千松園) 八王子城もなかは、以前(かなり前の2019年)に、オススメの「城もなか」ベスト5(第2位)として紹介させてもらった城もなかです。また、お店にお邪魔して、この大好きな城もなかに再会でき、懐かしい感動に目…

【家康の合戦】高天神城の戦い 武田vs徳川の攻防戦!

…残った武田方の城は小山城、滝堺城、諏訪原城となりました。さらに、1575年(天正3年)8月に諏訪原城を攻め落とし、残すは高天神城、小山城、滝堺城のみとなりました。ここで家康は高天神を取り囲むように城や砦群を築いていきました。この砦群は「高天神六砦」と呼ばれています。1576年(天正4年)に横須賀城を築城。1579年(天正7年)には小笠山砦、三井山砦を、1580年(天正8年)には能ヶ坂砦、火ヶ峰砦、獅子ヶ鼻砦、中村坂山砦を築き、徐々に高天神城を包囲していきました。 武田方として…

しぇるふぁさんによるJR福山駅から見る福山城の検証レポート

…ーアルオープンした福山城を訪問されました。その際にJR、福山駅のホームのどこからどんなふうに見えるのかを検証されたそうです。じっさいにホームのあちこちから撮影された写真も載せてくださってるのでとても参考になりますね! 2022年に築城400年を迎え、8月28日に改修工事を経てリニューアルオープンした広島の福山城。福山駅の目の前に立地するという特殊性から「駅ホームから見えるお城」や「新幹線車内から望めるお城」として有名ですが、では具体的にはどのホームからどのように見えるのか、駅…

【家康の合戦】長篠設楽原の戦い 激突!武田勝頼との三河攻防戦

…江犬居谷の光明城、樽山城、勝坂城、犬居城などを攻略し、二俣城の補給路を遮断しました。8月には遠江諏訪原城を攻略し、続いて小山城も包囲します。小山城救援として勝頼が出陣したため、家康は撤退しましたが、12月には二俣城を開城させることに成功しました。このように遠江の侵攻を進めて周辺の城を攻め落とし、ついに高天神城の戦いへと進んでいくのです。これは次回、書くことにします。 鳥居強右衛門(とりいすねえもん)の話 鳥居強右衛門磔死之碑。磔にされながらでも味方のために叫んだと言われる 長…

【家康の合戦】姉川の戦い 家康の活躍で浅井・朝倉を撃退した戦い!

…一日で退却、後方の横山城を包囲しました。信長と家康は龍ヶ鼻(たつがはな)に陣を構えます。これに対し、浅井・朝倉軍は姉川の北に、信長・家康軍も呼応して姉川の南に布陣し、ここに姉川を挟んで両者が激突する「姉川の戦い」が始まったのです。 ちなみに、このころ家康は引馬城を拡張する形で浜松城を築城し、岡崎城から居城を移しています。武田の遠江侵攻に備えるためと考えられていますが、武田と同盟していた浅井・朝倉と対立し、それは武田との対立を意味しているのですが、それを予測して浜松へ移ったのか…

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