攻城団ブログ

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お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

宇喜多秀家 の検索結果:

【家康の謎】家康はなぜ五大老の筆頭に選ばれたの?

…嫡男の利長に交代)・宇喜多秀家・毛利輝元・小早川隆景(死後、上杉景勝に交代)となり、このうち前田利家は織田政権時代から生き延びた大名であり、宇喜多秀家は秀吉の中国攻めを支えた宇喜多直家の遺児で豊臣・前田とは縁戚関係にある。この二人は秀吉にとって身内カウントであると言っていいだろう。毛利輝元・小早川隆景・上杉景勝は織田政権にとっては本来敵対者であったが、秀吉が政権を掌握する過程において協力関係を結び、臣従することになった。 そして家康は秀吉にとって織田政権の継承者を目指す戦いの…

【戦国軍師入門】関ヶ原の合戦――100人を倒すより1000人に裏切らせる

…た。 三成は笹尾山、宇喜多秀家は天満山、小早川秀秋は松尾山、そして毛利秀元(輝元の養子。輝元は大坂城に残って出陣しなかった)は南宮山。関ヶ原の盆地に布陣した東軍に対し、西軍は鶴翼の陣(鳥が翼を広げたような横に広がった陣形)ですっかり包囲する形に取り、最初に述べたように陣形としては有利だった。 実際、おりからの濃霧が薄まってきた頃に、松平忠吉(まつだいら ただよし)と井伊直政が本来の先鋒を差し置いて抜け駆けしてからの序盤の2時間、西軍は戦況を優位に進めていた。この時、島津・小早…

【戦国軍師入門】秀吉の四国征伐――官兵衛の策略でスピード勝利

…長、讚岐から侵攻する宇喜多秀家・黒田官兵衛・蜂須賀正勝、そして伊予から侵攻する吉川元春・小早川隆景の「毛利の両川」と、総勢12万余(8万や10万という説も)の大軍が3方向から一気に雪崩れ込んだ。しかし、元親も四国を統一した英雄だ。十分な備えはあった。彼は阿波の白地城(はくちじょう)に本拠を構え、海岸線沿いの防備を構えて秀吉軍を待ちかまえる。 こうして四国征伐軍は3方に分かれて進撃したわけだが、その中でも讚岐から侵攻する軍に対して、元親は植田城という小城を利用して撃退することを…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】奮戦の舞台③――長宗我部元親の策略と、それを見抜いた黒田官兵衛・植田城

…物は若く驕りの見える宇喜多秀家と、失敗したばかりで血気にはやっている仙石秀久だったので、彼らなら目の前の城攻めに必死になるに違いない、と性格まで読んでの作戦だった。 だが、相手は稀代の謀将・官兵衛だった。元親の策を見破った彼は、「敵の主力は阿波なのだから、讃岐の城は枝葉のようなものだ。枝葉を叩いても無益で、主力を倒せばそれですむ」と諸将を説得し、植田城を無視してしまった。このことを知った元親は残念がったという。その後、官兵衛は阿波の岩倉城を落として長宗我部軍を本拠地である土佐…

【10大戦国大名の実力】長宗我部家③――九死に一生を得るものの

…柴秀長を総大将とし、宇喜多秀家・小早川隆景らが従軍して三方向から四国に上陸した軍勢は総勢11万の大軍であった。 これに対して、元親は四国中央部に位置する白地城を中心に、各地の城に兵を派遣して羽柴軍を食い止めようとしたが――さすがに多勢に無勢、一気に攻め込まれてしまった。結局、元親は秀吉に降伏。土佐一国の支配だけを許され、豊臣政権に組み込まれることになった。ここに長宗我部家勢力拡大の野心は潰えたのである。 しかも、長宗我部家の不運はこれに留まらなかった。1586年(天正14年)…

【クーデターで読み解く日本史】西軍の有力者が裏切った本当の理由とは?――関ヶ原の戦い

…前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝)と五奉行(石田三成、前田玄以、浅野長政、増田長盛、長束正家)に誓詞(せいし=誓約の書類)を提出させ、まだ幼少の息子・秀頼への忠誠を誓わせた。 ところが、秀吉が死ぬと早速、五大老の筆頭で豊臣政権における最大の大名であった徳川家康が独自の行動を始める。誓詞の中で禁止されていた大名間での婚約を進め、勢力拡大に努めたのだ。このルール違反に対して、ほかの五大老と五奉行は家康に追及を行ったが、この時は大事には至らなかった。秀頼の後見人である利家が…

【殿様の左遷栄転物語】第1章「天下分け目」のその後で 負けた後こそ正念場

…きな位置を占めていた宇喜多秀家は殺されこそしなかったものの、所領をすべて没収されて伊豆八丈島に流され、そこで生涯を終えた。ただ、三成に協力しただけの西軍参加大名たちは基本的に改易止まりで、処刑にまではいたらなかったようだ。 しかし、必ずしもすべての大名たちが家を完全に断絶されてしまった、というわけではない。少なくない数の家が旗本や藩士として再興しているし、以前より大きく所領を減らしながらも何とか大名として復活した者もいる。面白いところでは、茶人や造園家として名高い上田重安の名…

【お城の基礎講座】75. 織豊系城郭(しょくほうけいじょうかく)

…は毛利輝元の広島城や宇喜多秀家の岡山城などがあります。このように織田信長によって完成され、豊臣秀吉によって普及・発展してきた城のことを織豊系城郭(しょくほうけいじょうかく)と言います。 名護屋城(佐賀県)には石垣や縄張などがよく残っている。織豊系城郭の最終到達点と言っても良い城だ まとめ 近世城郭は織田信長の天下統一事業によって完成を見ました。そしてそれを全国に普及させたのが豊臣秀吉です。戦が国境の小競り合いから大規模戦争へと移行するのに合わせて、城の形も変わっていき近世城郭…

2.譜代家臣団の成立

…前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景らとともに豊臣政権の中でも特に有力な大名である五大老の1人として豊臣家に仕えた。五大老の中では筆頭格で、秀吉の死後は子の秀頼を補佐した。やがで、家康は豊臣政権の分裂を画策し、豊臣政権の行政をつかさどる五奉行の1人、石田三成と深刻な対立を招くことになる。1600年(慶長5年)、「関ヶ原の戦い」が起こり、家康率いる東軍は三成の西軍を打倒、天下の覇権を掌握した。1603年(慶長8年)には征夷大将軍に任じられ、晴れて江戸幕府を開くに至る。 家…

【戦国合戦こぼれ話】関ヶ原の戦い――始まる前に終わっていた!?

…動いたのは西軍主力・宇喜多秀家を始めとする一部で、東軍の横や後ろを突けるはずだった松尾山の小早川秀秋や南宮山の毛利秀元といった軍勢は動かない。それでも西軍側の奮戦によって戦況は一進一退で推移したが、ついに小早川の軍勢が動くや、事態は一挙に終局へ向けて動き出した。 小早川軍は本来味方であるはずの西軍に向けて殺到し、これによって西軍は総崩れと相成ったのである。毛利軍は最後まで動かなかった。この両軍は戦いが始まる前から東軍側と内通し、三成を裏切っていたのである。 これこそ冒頭で紹介…

築城の名手(1)藤堂高虎が築いた城

…)※慶長の役で朝鮮に宇喜多秀家らと城を築く 膳所城(1601年、慶長6年)※家康の命により築城助工および縄張り 甘崎城(1601年、慶長6年)※大改修 灘城(1601年、慶長6年)※大改修 今治城(1602年、慶長7年)※伊予半国20万国の領主として起工 伏見城(1602年、慶長7年)※修理助役 江戸城(1606年、慶長11年)※幕府の命により江戸城大修理の縄張り 津城(1608年、慶長13年)※伊勢・伊賀22万石、津城の大改築を行う 伊賀上野城(1608年、慶長13年)※大…

植田城 知将の読み合いが行われた戦

…同じく秀吉の家臣の、宇喜多秀家、仙石秀久、小西行長らである。はじめに現地の農民から話を聞き、いちばん攻め落としにくい城が植田城だと見極めた。植田城が堅牢であることに加え、その城には元親の従兄弟・戸波親武がいたためだ。そこで官兵衛らは支城を落とし、最後に植田城を攻める作戦に出たのである。豊臣の軍勢であることを告げると、支城の諸将はすぐに降伏していく。兵力差があり、予想された事態であった。 しかし、官兵衛はこれに違和感を覚えた。植田城には2500人が籠っているのに、支城の兵に戦意…

リアル真田丸を見てきました(三光神社、心眼寺、安居神社などを訪問)

…上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家の五大老、現在風でいえば、大物大臣である! さらに、五奉行に石田光成、浅野長政、増田長盛、前田玄人、長束正家をおいた、秀吉死去により、家臣石田光成、浅野長政軍は関ヶ原で、徳川家康との最後の戦となった、秀吉の長男秀頼を母淀君が庇って戦いに出さず、豊臣家の家臣が、次々と徳川家に付き、関ヶ原で石田光成軍が敗北した! そのころ、真田幸村は和歌山九度山にいた、大阪城にかけつけた時、大阪城は徳川家の手におちる寸前であった!大阪城攻防で名高い茶臼山は冬の陣では…

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