四国征伐 の検索結果:
…期の堺は織田軍による四国征伐に備えて船が払底していたり、あるいはそもそも長期航海そのものの危険性を考えたのだとも推測できよう。 ともあれ、家康一行は陸路で険しい伊賀越えを選択した。ただ、実際にどんなルートを辿ったのかは史料によって記述が変わり、よくわからない。通説とされるのは和泉から山城の宇治田原を通って近江小川へ入り、そこから伊賀を通って伊勢の海岸へ出るルートだ。以後は海路で岡崎に入り、無事逃げ延びたということになる。 この時に家康を助けたのは、伊賀者たちであるとされ、それ…
…煎りで秀吉の陣営に。四国征伐の成果を認められ、秀吉から700石の知行を授かるが、なぜか逃亡。逆に秀吉から刺客を放たれたという。ホームレスから一転、今で言うと年商5千万円ほどのセレブになれたのに……。金も名誉も、勝成を縛れるものなどなかったのである。 その6. 戦国最強のフリーランス 今まで信長、家康、秀吉と名だたる武将の元で働いてきた勝成だが、職場を九州に移してからも、佐々成政、黒田長政、小西行長、加藤清正など、そうそうたる武将のもとへ仕官。一番首プレーヤーとして怒涛の活躍を…
…果たし、さらにのちの四国征伐・九州征伐・小田原城攻めといった大きな戦いでも諸勢力の説得や敵方武将の調略などで活躍する。ところがこうした功績ゆえにかえって秀吉は官兵衛を警戒するようになり、小田原の北条攻めが終わると政治の中心から外されてしまうのだ。 この警戒の原点は、どうも「本能寺の変」の際のあの一言にあったようだ。主君が謀反にあって殺された場合は秀吉のように悲嘆にくれる方が普通であり、官兵衛のように冷静にその後のことを考えられる者は貴重だが、同時に油断のならない、いつ自分に逆…
…、そして1585年の四国征伐と、秀吉の配下として各地を転戦したのだ。 また、こうした連戦の中で信長の居城として有名な安土城の築城にも関わっていたのだから、彼が大変に重宝がられていたことがよくわかる。そんな正勝の働きは実際にはどんなものだったのだろうか? 元「野党の親分」というイメージからは、合戦や諜報など、情報収集と腕力による活躍が想像される。もちろん正勝は戦場でも多くの武勲を上げているのだが、それ以上に多いのが外交折衝での活躍だった。 秀吉は降伏した相手は無闇に殺さなかった…
…かまえる。 こうして四国征伐軍は3方に分かれて進撃したわけだが、その中でも讚岐から侵攻する軍に対して、元親は植田城という小城を利用して撃退することを考えていた。この城は讚岐と阿波をつなげる重要な拠点だったが、同時に攻めにくい城でもあった。ここに敵を誘い込んで時間を稼がせ、その隙に自分の軍でもって後ろから攻め込み、挟撃する。それが彼の戦略だったのだ。 しかし讃岐を進撃する中で、あまりの敵の脆さと、彼らが植田城の方へ逃げていくことを不審に思った人物がいた。それが官兵衛だ。彼は元親…
…争いに勝利し、さらに四国征伐も完了させていた秀吉は、宗麟の要請を受けてまず両者の調停を試みた。 翌年、義久は秀吉のもとへ使者を送り、天皇の権威をバックにした秀吉の停戦命令受け入れの意思を示しつつ、「大友氏の侵略に対抗する自衛戦争である」と主張させた。これに対して秀吉は「豊後・肥後半国・豊前半国・筑後を大友に、肥前を毛利に、筑前を秀吉に、残りは全て島津に」という案を提示するが、大友・龍造寺という強敵を圧倒して九州統一まであと一歩と迫っていた島津家にとってはけっして呑めない話だっ…
…上、そもそも香川家が四国征伐の際に改易されていたため、「別の家の人間」とはもういえないのでは、という意見もあったようだ。とくに、吉良親実(きら ちかざね)や比江山親興(ひえやま ちかおき)といった家臣が強く反対したようだ。にもかかわらず、元親は意見を曲げなかった。それどころか、二人を始めとする反対者たちを次々と処刑してしまったのである。 これほど元親が強行的に動いたのには、愛息を失った衝撃もさることながら、久武親直(ひさたけ ちかなお)という家臣の暗躍があったとされる。立身出…
…羽柴(豊臣)秀吉が、四国征伐の軍勢を挙げた。秀吉自身は病と北陸の佐々成政討伐のために参加しなかったが、弟の羽柴秀長を総大将とし、宇喜多秀家・小早川隆景らが従軍して三方向から四国に上陸した軍勢は総勢11万の大軍であった。 これに対して、元親は四国中央部に位置する白地城を中心に、各地の城に兵を派遣して羽柴軍を食い止めようとしたが――さすがに多勢に無勢、一気に攻め込まれてしまった。結局、元親は秀吉に降伏。土佐一国の支配だけを許され、豊臣政権に組み込まれることになった。ここに長宗我部…
…後、豊臣秀吉に仕えて四国征伐の論功行賞として竹田城を与えられている。豊臣恩顧の大名であり、西軍に与していた。 大軍で囲み勝負はすぐに終わると思われたが、城内の幽斎は粘った。その甲斐あって西軍を丹後に引きつけ、関ヶ原本戦への参戦を防ぐことができた。籠城している間に本戦は東軍の勝利に終わり、西軍は田辺城の包囲を解いた。広通は親交があった亀井茲矩の説得で東軍となり、西軍・宮部長房の因幡鳥取城攻略に加わった。この時、城下を焼いたのだが、後日それを家康に咎められ切腹を申し渡された。当時…
…年)の羽柴秀吉による四国征伐だ。秀吉は信長の後継者として勢力を広げ、四国で権勢を振るう長宗我部氏を止めるため討伐に踏み切ったのである。秀吉は和睦を済ませていた毛利氏に出兵を要請し、当主・毛利輝元の家臣である小早川隆景が兵を出すこととなった。秀吉軍は10万を越える大軍で今張浦(愛媛県今治市)に上陸し、長宗我部氏に味方する城を次々に落城させていった。多くは秀吉に降服したが、抵抗して全滅したり、自刃して果てる者も中にはいた。秀吉軍が湯築城に迫ると、攻防戦を繰り広げた。やがて隆景は降…
…斎藤利三積極関与説 四国征伐回避説、ともいわれます。 光秀の重臣である斎藤利三(さいとうとしみつ)がかなり深く関わっていることは、当時の記録である山科言経(やましなときつね)の日記や、利三がただの斬首ではなく身体を引き裂く車裂きという残虐な処刑方法がとられた記録からも、ほぼまちがいないとされています。 ではなぜ利三は信長を亡き者にする必要があったのか。それが四国なのです。つまり信長の四国政策変更が理由で、長宗我部元親と姻戚関係(利三の妹が元親の妻)を結んでいた利三が、自分の立…
…臣秀吉がおこなった「四国征伐」のおり、土佐の戦国大名・長宗我部元親と秀吉の軍師・黒田官兵衛がぶつかっている。 長宗我部氏は土佐の国人であったが、当時の当主・元親に変わったころから勢力を拡大していった。1585年(天正13年)の春には四国を統一するにいたっている。秀吉は天下統一の妨げになると考え、伊予・讃岐を返上すれば、土佐・阿波を安堵するという条件で長宗我部氏の臣従を促した。だが長宗我部氏からすれば理不尽な要求には違いなく、応じられないと拒否。交渉は決裂し、秀吉による四国征伐…
…したが、小和田先生は四国征伐回避説(斎藤利三積極関与説)か、明智光秀による野望説のうちの非道阻止説(理想相違説)を支持してるそうです。 blog.kojodan.jp ちなみにこのあとのパネルディスカッションで会場に聞いた感じでは単独犯行説よりも黒幕説支持のほうが若干多かったです。ぼくは単独犯行説かなあ。 配布された資料にはこうした動機の諸説のほか、当時の武将配置図や関係人物の一覧がまとめられていて、すごくいい資料になってました(担当された方、ご苦労さまでした)。 たとえばこ…