先週金曜日に攻城団テレビで生放送をおこないました。
今回は以前アップした「三管四職」の回に間に合わなかった室町時代の守護一覧表をもとに、榎本先生と話をする復習回として企画したのですが、いろいろと脱線しながら約2時間楽しく話せました。
これが先日のブログでも紹介した一覧表です。元データは「国史大辞典」でそれをExcel形式に変換しています。
引き続きダウンロードできるようにしてますので、自由にご活用ください。
(むしろいろんな方に使ってほしいと思ってます)
榎本先生からは室町時代初期に守護職を補任した武家の紹介をしていただきました。
とくに初期は足利氏一門を全国の守護に任じていたようで、でも在地豪族をうまくコントロールできずに統治に失敗することも多かったようです。
その後、ぼくからいくつかの事件を取り上げて、その事件の結果、守護がどう変わったかを紹介しました。
具体的にはこのあたりです。用意したメモがあるので貼り付けておきますね。
1391年(明徳2年/元中8年)明徳の乱
山名氏清(やまなうじきよ)・満幸(やまなみつゆき)が起こした反乱。
六分の一殿=11カ国守護のはずが、10カ国なんだけど?
→1389年(元中6年/康応1年)が11カ国
明徳の乱では時煕に但馬、氏幸に伯耆(ほうき)の守護職が与えられただけで、残りの山名氏の旧領は、反乱鎮定に功のあった畠山・大内・一色・赤松諸氏に分与され、山名氏の勢力は一挙に削減された。
1399年(応永6年)応永の乱
6ヵ国守護・大内義弘が起こした反乱。
足利義満は畠山、斯波の軍を率いてこれを討ち、守護大名に対する将軍権力を確立した。
堺までは行ってないけど、じつは義満も出陣している。
(将軍自ら出陣しなければならない時点でまだ権力基盤は安定していない?)
1408年(応永15年)「天下の美挙(びきょ)」
応永13年(1406年)に畠山基国が亡くなると将軍・義満の逆鱗に触れて蟄居していた兄・満家に代わって、弟の畠山満則(みつのり)が畠山家の家督を継いだが、応永15年(1408年)に義満が死去すると、満則は家督を兄に返還したので讃えられた。このときに兄は弟に能登一国を与えて能登畠山氏が創設された。
どの家も義満にほんと振り回されているが、挑発に乗らなかったのはすごい。
この話は「マンガでわかる七尾城」で紹介したとおり。
1441年(嘉吉1年)嘉吉の変
赤松満祐が6代将軍・足利義教を殺害した事件。
義教は有力守護大名家の家督に介入(このあたりは義満に似ている)。
幕府の最長老格となっていた赤松満祐は義教に疎まれていた。
→享年61もしくは69なのでいずれにせよ還暦をこえていた
変の結果、赤松家の守護職はいったんゼロになったが、後南朝勢力に奪われた三種の神器のうちのひとつ、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を奪還したので許される。赤松政則が加賀半国守護に任ぜられ、その後の応仁の乱で旧領の三国をめぐって山名氏と争い、三国守護の座を取り戻す。
1467年(応仁1年)応仁の乱 ※最近の教科書では「応仁・文明の乱」と表記
足利将軍家の後継者問題、畠山氏の家督争い、斯波氏の家督争い、さまざまな内紛が複雑に絡み合って予想外の大乱になった。
河内守護が畠山政長→畠山義就→畠山政長と交代を繰り返している。
徒歩圏内で起きた争いが全国規模に発展し、守護在京制などそれまでの秩序が崩壊した。
1493年(明応2年)明応の政変
日野富子と細川政元が起こした将軍の擁廃立事件。
足利義材(義視の嫡子、日野富子にとっては妹の子)が10代将軍に就任するが、管領・細川政元は堀越公方・足利政知の子、清晃(のちの11代・足利義澄)を推挙していたため最初から関係が悪い。
さらに義材が後ろ盾だった日野富子との関係が悪化したので孤立した。
義材は政元が六角征伐と河内征伐に反対したのに無視した。とくに河内征伐は畠山政長が畠山氏を再統一するために畠山基家(義就の子)の討伐を要請したことにはじまっており、義材は細川氏への依存度を下げるために元管領の畠山政長に接近、恩を売ろうとした。一方で政元はライバルの畠山家は内紛をつづけてほしいので反対する。
結果、出陣中の義材を廃して清晃を新将軍に擁立し、同時に政長を河内守護職から解任。
将軍権力の失墜を象徴する事件で、かつ東国の戦乱や下剋上のきっかけになったことから戦国時代のはじまりとされる
→同年、伊勢宗瑞(北条早雲)の伊豆侵攻
この結果、将軍家が2系統に分裂した
→「義稙系(義材/義稙-(義維)-義栄)」と「義澄系(義澄-義晴-義輝-義昭)」
1507年(永正4年)永正の錯乱(えいしょうのさくらん)
室町幕府管領・細川政元が暗殺された事件。
政元はエキセントリックな人だった。
→突然諸国放浪の旅に出てしまうとか、烏帽子を嫌って被らなかったとか
生涯独身で養子が3人いた。関白・九条政基の末子の澄之、細川一門の阿波守護家から澄元、京兆家の分家の野州家(やしゅうけ)から高国で、このうち澄之を擁する内衆(うちしゅう)により暗殺された。
しかし澄之は細川家の血を引かないので家をまとめることができなかった。
残った澄元と高国の対立はバック=四国と畿内の対立となり、これが幕府将軍の義澄・義稙両派の争いとも絡んで20年以上の争いとなった(両細川の乱)。
あと、1552年(天文21年)に尼子晴久は8カ国守護になってる点もまとめていて気づいた点ですが、榎本先生によれば戦国時代に突入しているとはいえ、まだ地方では守護の肩書きは有効だったという解説がありました。
まとめ
表にすることで失われる情報もあるのは事実ですが(たとえばこういう穴埋めでは在任期間が1か月でも11ヶ月でもわからない)、縦軸を見ることで歴代守護やおおまかな在任期間がわかるし、また横軸を見ることで同時に交代している様子がよくわかります。
大きな流れをつかむ上では便利な表なので、こういうのを見ながら雑談できる仲間を増やしていければなと思ってます。