信虎以前
話を甲斐武田家に戻そう。室町時代の武田氏は、東国に強大な勢力を誇った上杉氏と姻戚関係を結び、さらに勢力を拡大していった。
ところが、上杉禅秀の乱に加担したことから鎌倉公方・足利持氏の軍勢と敵対し、敗北したために守護の地位を失い、甲斐を追われることになってしまった。その後、持氏の力を抑えようとする幕府の支援を受けて甲斐への帰還は果たしたものの、反武田勢力によって苦しめられることになる。
この状況を変えたのが武田信昌(たけだ のぶまさ)である。9歳で家督を相続した彼は長じてから専横を振るう守護代・跡部氏と対立。これを滅ぼし、甲斐をほぼ統一することに成功している。
しかし、甲斐の内紛はこれでは終わらない。信昌が嫡男・信縄(のぶつな)ではなくその弟の信恵(のぶよし)に家督を譲ろうと画策したせいで、後継者争いが起きてしまったのである。
この戦いは6年ほど続いた末に1498年(明応7年)の明応地震を天罰と感じた両陣営により、和睦。信縄が家督を継承し、彼が病死するとその子の信虎(のぶとら)へ受け継がれた。
そう、彼が信玄の父・武田信虎である。この時14歳であったという。
信虎の活躍とクーデター
信虎の家督継承は、信恵との対立再燃につながったが、彼は家督継承の翌年には叔父を倒して二代続いた抗争に決着をつけている。さらに地域に根付いて地方領主化した他の武田一族や、有力国人などによる反発も抑えて、甲斐の統一を達成する。1532年(天文元年)までには完了していたようだ。
これに加えて、信虎は本拠地を甲斐の中心部に移転し、武田の居城として名高い躑躅ヶ崎館と府中の町を築きあげている。のちに信玄が一気に領土を広げていく地盤を築いたのが信虎である、といえよう。
対外戦争にも信虎の手腕は発揮されている。今川家による甲斐侵略を退け(のちに今川家が家督争いをおこすとその一方を支援し、これをきっかけに両者の関係は好転した)、関東で勢力を伸ばしていた北条家を打倒するべく関東遠征も行った。
さらに信濃進出も試みているのだが、こちらは諏訪氏に敗北するなど、順調に進むとはいかなかったようだ。それでも信虎の治世がこのまま続けば信濃進出が彼の手で進んでいっただろうが、ここで事件がおきる。
1541年(天文10年)、信虎が娘婿にあたる駿河の今川義元のもとを訪れようと甲斐を離れた際、嫡男の晴信――のちの信玄が突如としてクーデターを起こした。兵を派遣して国境を封鎖し、父を追放してしまったのである。