現代の一日三食という食習慣は戦国時代にはじまり、江戸時代に定着したそうです。
時代劇で白菜が出てくると考証が甘い(いまぼくらが食べている白菜は日清・日露戦争で大陸から兵士が持ち帰った種子にはじまるそうです)という指摘はSNSでよく見かけますし、大河ドラマの時代考証をされている小和田先生の講演でも『天地人』で「越後は米どころだ」というセリフに対して、越後が米どころになるのは江戸時代の大規模新田開発のあとなので戦国時代の状況とはそぐわないと指摘された話をされていました(収穫高が約3倍に増えたとか)。
ドラマはドラマなのであまり厳しくチェックするのも興をそぐことになりますし、個人的にはエンタメ作品はおおらかに見たほうが楽しめると思っていますが、知識として知っておくとそれはそれで楽しいですよね。
この食材が日本に入ってきたのはいつなのか(なんとレタスは奈良時代だとか)、この料理が登場するのはいつ頃のことなのか、料理の作法や食文化はどのように定着していったのかなど、食事というのはとても身近なことなのに、その歴史については意外と知らないことだらけだなと思って、とくに戦国時代の食習慣や食文化について、榎本先生に教えていただきました。
戦国時代に起きた食の変化
まず戦国時代にはいろいろな「食の変化」が起きました。またそうした変化が江戸時代に定着したという傾向が広く見られるのですが、最初に結論を書いておくとこれは国内の事情というよりは、大航海時代まっただ中にあった海外との交易・交流の中で起きた変化だそうです。
具体的にはこのような変化が起きていました。
- 醤油の出現は戦国時代終わり頃で、味噌から染み出してきた汁がルーツであるとか
- 油を使った揚げ料理「天ぷら」「油揚げ」「がんもどき」は戦国時代に伝わった西洋料理の手法が江戸時代に和食化
- スイカ、ジャガイモ、トウモロコシ、トウガラシなどの新しい食材が入ってきたのも戦国時代
- 酒が白濁したドブロクから、澄んだ清酒へ変わり始めるのもこの頃
なお冒頭に書いた一日二食から三食への変化については合戦のためのエネルギー補給を目的とした間食が日常化していったという説があるそうなので、これは(大航海時代とか関係なく)完全に国内事情によるものですね。
普段の食事は?
では普段の食事はどうだったのでしょうか。
戦国時代は不足した食料(おもに米)を奪うために隣国に攻め込むといったことも珍しくない時代ですから、現代のように毎日好きなだけ白米を食べられるといったことはありません。むしろ米が希少だったため、庶⺠や下級武士はもちろん、石田三成のような上級武士でさえも雑炊を普段から食べていたそうです。
米に麦や粟を混ぜて炊いたり、雑炊にしたりするのが基本で、庶民は雑穀や芋が主食でした。
また、味噌汁をかけて食べる「汁かけ飯」は身分を問わず広く好まれたようです。たしかに北条氏政の汁かけ飯エピソードを考えても、大名クラスでさえ日常的に汁かけ飯を食べていたことがわかりますしね。
北条氏政の汁かけ飯エピソード
氏政が汁の二度かけ(一度かけたけど足りなかったのでもう一度かけた)をしたら父親の氏康が「毎日食べてるんだからそのくらい見切れるようになれよ」と失望して政治家としての器量まで疑った話。また仏教の普及により肉食は良くないとされていたそうです(鳥と魚は許されていたとも)。
しかしじっさいは猪や鹿などを食べていました。武士は軍事訓練も兼ねて狩りをするから、捕らえた獲物はそりゃ食べるだろうと榎本先生はおっしゃってました。
ここでおもしろいなと思ったのが、秀吉が肉食を禁止した経緯です。
西洋人の影響を受けて肉食は一時ブームになりかけましたが、秀吉の禁令により下火になりました。これは単純に「不浄」という理由に加えて、牛や馬などの家畜を食うと生産効率が悪くなるからと考えたからのようです。
秀吉がほんとうに百姓出身なのかはわかりませんが、とても合理的な考え方だなと感心しました。フランシスコ・ザビエルは著書の中で「猟で得た野獣肉を食べるが、食用の家畜はいない」と書いたそうですが、この秀吉の禁令をみんなが遵守していたということなのでしょう。
ちなみに江戸時代、彦根藩は近江牛を薬として将軍に献上していたことは有名ですね。
「反本丸(へんぽんがん)」という養生薬として味噌漬けにした牛肉を贈っており、つまり彦根藩は幕府から牛肉の生産を許されていた唯一の藩だったとも言えます。
じつは将軍家だけでなく水戸家にも献上しており、とくに徳川斉昭は近江牛の愛好者として知られ「度々牛肉を贈り下され、薬用にも用いており忝(かたじけな)い」と書いた礼状を彦根藩主に送っています。しかし井伊直弼が藩主になると、殺生禁断のため斉昭への牛肉献上を中止したそうで、直弼の性格がよくわかるエピソードですね。
現代でも関西と関東では味付けが異なりますが、地方による味の好み(濃い薄い)は当時からあったそうです。
織田信長に仕えた、中央で活躍していた料理人がまずいと叱られ、次に出した料理はうまいと褒められた、その理由について本人曰く「田舎者好みの濃い味にしてやった」とのこと。
おそらくは好き嫌いというよりは食べ慣れている味かどうかの問題だと思いますが、こうした地方ごとの食文化は現代でも郷土料理として残ってたりしますよね。
番組では「高遠そば」の話をしましたが、攻城団ではコンテクストツーリズムと称して、各地の共通項(文脈)を探して旅行のきっかけにすることを推奨しています。
まさに「そば」をテーマにしたバッジも用意してあるので、ぜひ全国のお城をめぐりながら現地のおそばを食べ比べてみてください。
特別な食事(戦場と饗宴)
もちろん戦場でも食事は必要ですし、安土城で信長や家康を饗応したように宴席での食事も非常に重要でした。
今回の番組で榎本先生がいちばん紹介したかったのが、この戦場食の話だったそうです。
戦場では「干し飯(一度炊いて乾燥させた飯)」や「芋がら縄(味噌で煮染めたずいき=芋の茎。縄にも使うし、即席味噌汁の元にも)」を食べたそうですが、子どもの頃にマンガで読んでびっくりされたとか。
有名な携帯食に「兵糧丸」があります。これはさまざまな材料を砕いて練って丸めて持ち歩く団子のような食べ物で、『上杉家兵法書』のレシピだと、麻の実、黒大豆、そばの粉末を丸めて酒に浸してつくりますが、ほかにもバリエーションがいろいろあるようです。
うちにあったこの本にレシピも載ってたので、いつかつくってみたいと思います。
なお戦国時代後期に専業兵士が登場するまでは基本的に短期間の戦争しかなかったので、兵糧は基本的には各兵士が自分で持ってくるものだったそうです。現地での略奪もしますしね。
戦争が長期化するようになると自己責任では無理があるので軍団の方から支給もされました(3日までは各自持参であったとも)。ここで活躍したのが「小荷駄隊」という運搬専用部隊でしたが、戦功が認められにくいので誰もやりたがらなかったようです。
調理も基本自分たちでやったそうです。「米をたくさん与え過ぎると酒を作る兵士が現れる」という話があるくらいで、すべてのことを自分でやらなければならない当時の兵士はかなりハードですね。
もちろん行軍中は調理をしなかっただろうとのことでした。「腰兵糧」という、いわゆる乾飯などを食べながら進んだみたいですね。これは時短目的だけでなく、火を使って調理してたら煙が立つので敵にバレやすいということもあったようです。
陣城を築いて包囲中にあるとか、余裕があれば雑炊をつくりました。
武田信玄はほうとうを陣中食として食べさせたらしいです。栄養満点で、しかも干した麺は米より軽いのも好都合でした。
また鍋釜なしで米を炊く方法として、「濡らした手拭いで米を包んで地面に埋めてその上で焚き火をする」ということをやっていたそうです。
まるで予想もできないのですが、どんな味なんでしょうね。これもいつかやってみたい。
戦場とは逆に、宴会での食事についても聞きました。
室町時代、将軍の御成を迎える武家の儀式のための料理として「本膳料理」が確立したそうです。その後、戦国大名が客を迎えるときはこのスタイルで料理を用意するようになったとか。
安土城での饗応メニューも記録に残っていて、鮒ずしや鮎ずし、鴨の汁に鱸の汁、鯛に鱧に鮑のほか、宇治丸(鰻の蒲焼)があるのですが、この頃はまだ現代のように開いた蒲焼きではなかったそうです。
とまあこんな感じで今回は「食」をテーマに戦国時代(一部江戸時代も)の話を伺いました。
身近なテーマだからこそおもしろいですね。こんなふうにこれからもワンテーマでいろんな話を教わっていきますので、みなさんも興味あるテーマがあればぜひリクエストしてくださいね。