よくある英雄不死伝説のひとつだとしてもこうした伝承が残った背景にはとても興味があるので、本件について調査をされた吉澤さんに寄稿いただきました。
石田三成公のお墓が群馬にあるらしい!
9月初旬に御城印を集めている方から「石田三成が群馬に生存していた」と情報を頂きました。
ネット検索では沼田市薄根村誌にある正行院というお寺に伝承として残っているとの記事を発見、これはすぐに調べなくてはと思い、9月8日に正行院さんへ。
しかしどなたもいらっしゃらなかったため、お寺のご近所の方を訪ねてみました。
最初にお話をお聞きする事ができたのはお寺の檀家さんでした。
その方によると住職さんが亡くなられて新しい方が掛け持ちでされているとのことでした。
石田三成公の生存伝承については
- 石田三成は関ケ原の戦いの後に落ち延びて正行院の住職になったらしい
- お墓があってどこかに石田と入っている
- お寺の周りには石田三成の家臣の名字がある
と伺うことができました。
さらにお寺の総代の方をご紹介してくださり、同日お会いすることができました。
総代さんに調査の件を説明したところ快く住職さんのご連絡先を教えて頂き、10月3日に住職さんにお会いする運びとなりました。
住職さんに石田三成公の生存伝承のお話を伺ったところ「前任者から三成の事は聞いていたので知っていた、ただあまり歴史に興味がなかったのでそれほど気にはしていなかった」とのことでした。
本堂に案内して頂き歴代の御住職の御位牌、また正行院は真田幸隆が中興の祖で真田家ゆかりのお寺だということで六文銭の箱に大切にしまわれている幸隆公の御位牌も拝見させて頂きました。
伝承によれば三成公は22世の住職になられたということで、22世の御位牌を拝見させて頂きました。
御位牌の左側は奥方様、右側が22世白栄大師の戒名でお亡くなりになったのは元和9年3月23日、西暦だと1624年だとわかりました。三成公だとすると65歳ぐらいでしょうか。
さらに裏を見て鳥肌が立ちました。
「石田治部少輔公」という文字と「考主井土上嫡子石田與八」とありました。
井土上とは、正行院のすぐ下の地名のことです。
考主とは、現在の喪主の事ではないかと住職さんはおっしゃっていましたが、ここは定かではございません。
また、22世のお墓の周りを見させて頂きまして、左下に小さく「石田」という文字を発見できました。
檀家の方が仰っていた通りでした。
10月3日の調査は時間の都合上、ここまでで終了となりました。
その後、10月9日に沼田図書館で薄根村誌の中に『石田三成の墓』を見つけ関ヶ原の戦い後の行動が細かく記載されていました。
(後日この『石田三成の墓』を書いたのは先々代の正行院の住職さんだとわかりました)
図書館から画像転載と全文記載は遠慮してほしいと案内されたため、その内容を抜粋して紹介させて頂きます。
薄根村誌によれば、
正行院に三成の石塔と単誓和尚の記念塔がある。
これは慶長五年、関ケ原の戦いに敗れた石田三成の墓である。三成は腹臣林半助に後事を託して伊吹山伝いに京へ逃れ、かつて豊太閣の帰依厚かった古知谷の単誓和尚に身の振り方を相談した。
単誓は考慮の結果、三成の請により一族郎党と共に、その年の九月十八日子の下刻、京の地を発足し、飛騨の高山から信州路に入り、深志を過ぎて上田に到着し、真田昌幸の元へ。
三成の夫人は宇田下野守頼忠の娘で、大谷刑部の養女であり昌幸夫人とは姉妹である。一度此処に落ち着いた三成も、徳川の捜索の厳しさを気遣った昌幸の計らいで父幸隆の建てた上州沼田の正行院に送られることとなり、十月半ば頃、正行院に落ち着いた。
続いて途中散り散りになった人達も集まり将来について協議した。三成は落飾して寺の住僧となり、他は野に下り百姓となった。
三成は正行院22世となったのである。
三成の佩刀は四天王の中村三郎兵衛に残し、夫人の懐刀と三成の書いたものは正行院にある。
以上、簡単ではございますが村誌より抜粋した上で、わかりやすく編集させて頂きましたが、原文には家臣団の名前や三成公の子供達の名前も記載されていました。
あくまで伝承であって誰にも真実なのか嘘なのかはわかりませんし、三成公が生きていたと言うつもりも全くございません。
ただ、もし関ヶ原の戦いの後に真田家を頼り上州で生きていたならロマンがある――真田昌幸と三成公の奥方は姉妹だったと言う話や正行院がある沼田は真田信之が治める地でもあり、信之と三成は現在でも手紙が残っているほどの仲だったと言われ個人的にはワクワクしております。
最後になりますが、あくまで薄根村誌や正行院に伝わる伝承を個人的に調べた内容であり、知識不足や通説などを無視した内容だったと思います。
何度も申し上げますが三成公が生きていたと言うつもりはございません。ただ、三成公の生存伝承が残っているのだと少しでも上州群馬に興味を持って頂ければ嬉しいです。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
また、この伝承に興味を持ち取材にも同行してくださった、ツイッターで有名な石田三成さん(@zibumitunari)からもコメントを頂きましたので紹介します。
沼田正行院には確かに「石田治部少輔」と記された位牌があり、「石田」と刻まれたお墓が残っています。この正行院は真田家ゆかりの寺院であり、真田家は三成にとってズッ友のお家です。特に、真田信幸殿とは多くの書状をやり取りしており、その親密な関係は多くの諸大名に知られていました。
「三成は関ヶ原で敗れても、真田の地に逃れて生涯を全うした。」無論、あくまで伝承レベルの話であり、史実の可能性は限りなくゼロに等しい。だが、石田一族にゆかりのある人々が上州にいたのかもしれない、三成を慕う人々が創り出した伝承なのかもしれないと想いを馳せることは可能であろう。
徳川の世になっても、伝承として語り継がれた。そう、三成は死しても人々の心の中で生き続けていたのです。
上州群馬には他にも、三成の鬼殺伝説の残る退魔寺(伊勢崎市美茂呂)や、三成三女・辰子姫の眠る東楊寺(太田市大舘)があり、意外と繋がりがあります。付近に住まう皆々は是非とも訪れてください。
全国にはまだまだ三成を巡る史跡や伝承が残っているかもしれない・・・。
この三成ラッシュを逃すことなく、来年の西軍勝利へと皆で繋げていこう!!!!!