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【クーデターで読み解く日本史】皇統問題に端を発する後醍醐天皇の乱――正中の変

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1324年(正中元年) ○鎌倉幕府 ×後醍醐天皇

1324年(正中元年)、後醍醐天皇が討幕を企てるも事前に発覚、鎮圧されてしまったのが正中の変である。
そもそも天皇が挙兵する背景には皇統分裂の問題があった。後嵯峨天皇の後を継いだ二人の兄弟、後深草天皇と亀山天皇が父の死後に朝廷の実権をめぐって対立し、その争いは二人の子孫――持明院統(後深草の血筋)と大覚寺統(亀山の血筋)に継承されてしまったのである。
しかも幕府はこの対立に有効な手立てを打てていなかった。後醍醐天皇はこのうち大覚寺統の出身である。

後醍醐天皇としては自分の息子を後継者にしたかったのだが、皇統分裂問題に絡んで幕府の介入があってかなわなかった、というのが討幕運動に取り掛かる動機のひとつであったらしい。
この時期になると幕府の支配体制も少なからず弱体化しており、それに付け込める、という計算もあったのだろう。

さて、討幕運動を進めるにあたって、後醍醐天皇はカモフラージュに気を配った。連日酒宴を開き、無礼講と称して騒ぎつつ、実はその中でいかに幕府を倒すべきかを話し合ったのである。
ところが、ここまで気をつかったにもかかわらず、参加者の一人を通じて情報が漏洩してしまう。この人物は事に参加するにあたって妻をまきこみたくなかったのかそれとなく別れを告げようとしたのだが、これが裏目に出た。夫の不審な言動を怪しんだ妻は彼を問いつめて真相を聞き出すと父に報告、そこから幕府の知るところとなったのだ。

結局、天皇側近たちが主君に罪を及ぼさないために奔走し、また幕府としても事態を拡大させる気がなかったためか、重大な処分が下されることはなかった。
しかし後醍醐天皇が討幕をあきらめることはなく、やがてそれは元弘の乱、そして建武の新政として結実することになる。

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