1285年(弘安8年) ○平頼綱・北条氏 ×安達氏
元寇に際して活躍した北条時宗(ほうじょう ときむね)の子・北条貞時(ほうじょう さだとき)が執権を務めていた時代、北条得宗家とその家臣団(御内人(みうちびと)と呼ばれた)の権力が強化されていくのに対し、御家人たちは不満を募らせ、反発を強めていくようになる。
その結果として巻き起こされたのが1285年(弘安8年)11月の霜月騒動(弘安合戦、奥州禅門合戦とも)だ。
宝治合戦で主導的な役割を果たした安達氏は、特に北条時宗の執権時代に大きく勢力を伸ばしていた。
時宗の妻が安達泰盛(あだち やすもり)の妹であったことが大きかったのだ。時宗が亡くなって貞時に代替わりするとその力はさらに強化されたが、一方で平頼綱(たいら の よりつな=貞時の乳母の夫)に代表される御内人との対立も激化した。
両者はともに貞時へ働きかけてお互いの追い落としを狙ったが、決め手となったのは泰盛の子。
安達宗景(あだち むねかげ)が「曾祖父・景盛(かげもり)は本当は源頼朝の子であった」と称して源の姓を名乗ったことであった。頼綱がこれを「謀反をたくらんでいる」として貞時に伝えたことで、安達一族は討伐されることになってしまったのである。
どうも、泰盛には自分たちが攻められることについて、何かの予感があったようだ。
そこで貞時と話し合うためにか執権の館に入ったのだが、待ち構えていた頼綱らに殺害されてしまう。やがて鎌倉を舞台に激しい戦いが行われ、安達一族は滅ぼされてしまった。
また、北条氏派と安達氏派が争ったことにより、この戦いの余波は関東の外へ広がり、特に筑前では小弐氏(しょうにし)の家督をめぐって大規模な戦いが巻き起こっている。
勝利した頼綱は御内人に御家人を監督させる恐怖政治によって彼らを圧迫し、いよいよ得宗家に権力を集中させていくのだが、やがてそれが自らの命取りにもなってしまう。