1213年(建暦3年) ○鎌倉幕府 ×泉親衡
1213年(建暦3年)、信濃国の泉親衡(親平、いずみ ちかひら)が北条氏打倒の反乱計画を画策する。その旗印となったのが、非業の死を遂げた二代将軍・源頼家の遺児、源栄実(えいじつ=幼名は千手あるいは千寿とも)であった。
ところがこの計画は参加者の一人が関東の有力御家人・千葉氏に協力を持ちかけたところ逆に捕らえられ、幕府へ突き出されたことであっさり発覚してしまう。
彼が親衡を始めとする参加者の名を白状したことによって反乱は形になる前に鎮圧された。さらに三百人以上という反逆者たちはその多くが捕らえられたのである。ただし、首謀者である親衡は追っ手から逃れたという。
この事件の重要性は反乱そのものより、むしろその後の処置にあった。
逮捕者の中に、初代侍所(さむらいどころ)別当(べっとう=長官)・和田義盛(わだ よしもり)の子である義直(よしなお)と義重(よししげ)、それに甥の胤長(たねなが)ら和田一族の者たちがいたのである。この頃上総にいた義盛は許しを乞おうと鎌倉に赴いて将軍に釈明し、その功績を考慮される形で罪を許されることになった。
それほどまでに義盛と和田氏は幕府にとって重要な存在で、御家人の中でも特に力のある一族の一つだったのだが、これは逆に言うと北条氏にとっては目の上のたんこぶ的存在だった、ということでもある。
北条義時はどうやらこの事件をきっかけに和田氏を排除しようとたくらんだらしい。
結果、まだ罪が許されていなかった胤長は「手を後ろで縛られた姿を一族の前に晒される」という辱めを受けた末に流刑になり、その所領は義時のものになってしまったのである。
この挑発が、続く和田合戦の大きな原因となる。