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【クーデターで読み解く日本史】寵臣も後ろ盾を失えば孤立無援――梶原景時の変

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1200年(正治2年) ○鎌倉幕府 ×梶原景時

征夷大将軍として鎌倉幕府を開いた源頼朝が亡くなったのは1199年(正治元年)のことである。
源氏の家督と将軍の座を継いだのは嫡男の頼家(よりいえ)だったが、彼はまだ若冠18歳で騎慢な性格が目立つ部分があり、また妻の実家である比企氏(ひきし)ばかりを重用するなど、その統治者としての力量には疑問符がついた。

そこで頼朝の妻・政子の父である北条時政(ほうじょう ときまさ)をはじめとする老臣たちは裁判で判決を下す権限を頼家から取り上げ、重臣たち12人が会議をして判決を下す方式に変更した。その中心にいたのは時政である。
こうした動きの背景には、頼朝時代の独裁政治への反発心も少なからずあったようだ。

しかし、頼家と老臣たちの対立はこれだけでは終わらなかった。
頼朝・頼家父子に仕えた重臣・梶原景時(かじわら かげとき)をめぐって事件が起きたのだ。この景時はかつて頼朝が伊豆で挙兵し、一度平氏方に敗れて危機に陥った際、敵方でありながらあえて頼朝を逃がして以来の忠臣であり、「一の郎党」として遇された人物である。
源義経のお目付け役として源平合戦に参加し、義経の振る舞いについてあることないこと報告して頼朝・義経兄弟の溝を広げたことが有名だが、逆にいえばそれだけ頼朝から信頼されていた人物だったともいえる。

事件の発端は頼朝の乳母の子・結城朝光(ゆうき ともみつ)が「景時が朝光に謀反の疑いがあると将軍様に耳打ちした」という話を耳にしたことだった。
朝光は頼朝に可愛がられており、頼朝が亡くなったことを追想しつつ、今の政治に対して不安を感じている旨を話していた。この発言が景時によって謀反と取られたようなのだ。

慌てた朝光が友人に相談すると「仲間を作って署名をし、景時を排除するよう働きかければいい」ということになった。頼朝の寵愛をバックに強い力を振るった景時に不満を持つ者はたくさんおり、結果として彼を糾弾する署名66人分が集まった。
これを受けた景時は反論も弁論もせず一族とともに九州へ下っていったが、内心憤懣やるかたないものはあったのだろう。1200年(正治2年)に挙兵したものの、その途上である駿河国――時政が守護を務める地で攻撃を受け、討ち死にしてしまった。そのため、裏で時政が景時殺害を画策していたのでは、ともいう。

鎌倉幕府の初期はこのように幕府内部での有力武家による政争がしばしば起こり、その中でライバルたちを着実に排除していった北条氏が政治の主導権を握っていくようになる。

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