主君を次々と変える
伊勢国津藩の藩祖である藤堂高虎の出自は諸説あってよくわからないが、近江にルーツがあるようだ。
高虎はもともと近江の有力大名である浅井家に仕えたが、その後幾度も主人を替え、1576年(天正4年)に羽柴秀吉の弟である秀長に仕えるようになった。やがて秀長が死ぬとその嫡子・秀保の後見を務めるも、彼もまた死んでしまったので、しばらく高野山に入っていた。
だが、高虎の才覚を惜しんだ秀吉が呼び戻したため、伊予に7万石(後に8万石)を与えられ、水軍の将として活躍した。
こうして秀吉から深く信任された高虎だが、一方で豊臣政権の有力者である徳川家康にも接近していた。実際、関ヶ原の戦いが起きると、豊臣系大名の切り崩しに奔走するとともに関ヶ原の決戦でも活躍し、大きな戦功をあげた。
結果、伊賀・伊勢への転封を命じられ、1608年(慶長13年)に津城に入った。
その後、大坂の陣での功績により伊勢国内に5万石を、2年後にはさらに5万石を加増され、合わせて32万4千石弱を領する大名となった。これはもともとの築城術の達者という側面もさることながら、機を見るに敏なその才覚に与えられたもの、と考えていいだろう。
翻弄され続けた高吉
この高虎の跡を継ぐものとして、1588年(天正16年)、丹羽長秀の3男・仙丸を迎え入れた。第1章で紹介した丹羽長重の弟にあたる。
仙丸はもともとこの時期の高虎の主君である羽柴秀長の養子で、秀長は優秀な仙丸をとても気に入っていた。しかし高虎が仙丸を養子にくれるよう秀吉に頼み込んだために、手放さなければならなくなったのである。
高虎が仙丸を所望した理由としては、彼を通じて秀吉に取り入ろうとしたためと考えられている。
そもそも仙丸は羽柴秀吉が丹羽家を取り込む戦略の一環として弟の秀長のところに養子として貰われたのだ。しかし、この時にはすでに丹羽家は秀吉の支配下にあったので、彼の価値は下がっていて、すでに秀長の後継者の座からは追われていた。そこに高虎からの声がかかったので、彼の才覚を気に入っていた秀長以外にとっては誰もが満足する結果のはずだった――少なくとも、この時点では。
こうして高虎の養子となった仙丸は、養父となった高虎から一字を貫って高吉と名乗った。14歳で朝鮮出兵に出陣し、秀吉が没した後は徳川家康に従って会津征伐に従軍。関ヶ原の戦いでも東軍に与して戦い、功績を上げた。
しかし1601年(慶長6年)、高吉にとって不運といえる出来事が起きる。高虎に実子・大助(後の高次)が誕生したのだ。これによって、何の問題もなく高虎の跡を継ぐかと思われた高吉の人生は大きく変わってしまう。
また、これ以後はふたりの関係も微妙に変化した。
ある時に高吉の配下たちと他藩との争いがあった。これは幕府による裁定で「相手に罪がある」となったのだが、高虎は高吉を密かに蟄居させてしまった。事件を起こしたこと自体が問題だ、幕府に目をつけられてはかなわない、と思ったのだろう。
この時には家康が気づいて仲直りさせたので廃嫡などの問題には発展しなかったが、高吉もいい気持ちはしなかったろう。
本家と名張藤堂家の根深い確執
1630年(寛永7年)、高虎が75歳でこの世を去る――その3ヵ月前、彼は高次に家督を譲り渡していた。高吉は高次が生まれて以来、藤堂家から冷遇される傾向にあり、ここに来てそれが決定的なものとなったといえる。高吉は高次の家臣という立場にまで落とされたのだった。
高虎としては、養子であり、しかも豊臣家と縁が深くて幕府に目をつけられかねない高吉よりも、やはり実子を選びたかった、ということなのだろうか。
父の死去から間もなく、高吉はそれまで本拠地としていた今治から伊勢国内2万石への転封を命じられた。それに従って伊勢国に赴いた高吉だったが、そこでさらに高次から、伊賀国の名張に移住するよう勧められる。
高次はあくまで西方の守りを固めたかったのだとも、高吉を煙たがって遠ざけようとしたのだともいうが、どちらにせよ高吉としてはあまりいい気はしなかったのではないか。
こうして名張に入った高吉は、名張藤堂家の祖となったのだった。この後、名張藤堂家は二百三十余年にわたって名張の地をおさめたが、本家との関係は決して良いものとはいえなかった。
そもそも、名張藤堂家の2万石はもともと半分は秀吉から、半分は家康から与えられた高吉自身の所領だったのに(その意味でいうなら彼は本来大名だったはずなのに)、それがいつの間にか津藩の一部に組み込まれていて、かつ5千石は高吉の死後に兄弟たちへ分け与えられてしまった、という経緯がある。
このほかにも「高虎は遺言で4万~5万石は分け与えようとしていたのに、高次が握り潰した」という真偽不明の話もあれば、「名張藤堂家の家臣や領民は当主を殿様と呼んだが、本家はこれを激しく嫌った(一応、ルール上は本家が正しい)」ということもあって、高次・高吉以来の対立が両者の間にあったと考えられる。
実際、名張藤堂家は1734年(享保19年)には本家から独立しようとして騒動を起こしている。これは「享保騒動」と呼ばれたが、本家にバレてしまったことから、最終的に軟着陸する方向で収まった。
以降の名張藤堂家に対する本家の監視はそれまで以上に厳しくなったが、廃絶することなくなんとか明治維新を迎えた。