人を呪わば……
前回は大久保家の悲劇を紹介した。しかし、人を呪わば穴2つ、というべきか。大久保忠隣を罪に追い落としたと思われる本多正信の家も、その息子・正純の代になって明らかな陰謀によって改易に追い込まれている。
本多家もまた古くから徳川(松平)家に仕えてきた譜代の名門で、藤原北家の流れであるという。
この一族は大きく「定通系」と「定正系」に分かれ、本流である定通系の代表的な人物としては、立花宗茂の項で紹介した本多忠勝がいる。そして、定正系の代表こそが正信・正純親子である、といっていいだろう。
この正信もまたなかなかに数奇な運命をたどった人物である。彼は家康の幼い頃からの側近であったが、三河一向一揆では一揆側について、反乱鎮圧後に出奔。各地を渡り歩いた末に家康の元へ戻り、以後は謀臣としてさまざまな場面で活躍した、という。
1582年(天正10年)に本能寺の変が起きて同盟者である織田信長が死んだ際、家康は京にいた。そのために苦労して伊賀を通過して本拠地へ戻ることになり、これを「神君伊賀越え」というのだが、その背景には正信の奔走があった――などという話まであるのだ。
そんな正信が亡くなったのは1616年(元和2年)のこと。家康の死からわずか49日のことで、このふたりは非常に親しい関係であったといい、それを象徴するような死であった。
名官僚・正純が引き起こした軋轢と悲劇
正信の子・正純もまた、若い頃から家康の側近として活躍した人物である。
家康が将軍職を秀忠に譲り、駿府へ隠居した際にも、他の家康の側近らは2代将軍・秀忠に仕えて幕僚となったが、正純は家康の傍にあり、その意を受けて駿府での政治を取り仕切った。秀忠が新将軍の座についたとはいえ、実権を握っていたのは「大御所」家康だったので、そういった意味で正純は元同僚たちを超える実権を手に入れたのだ、といえよう。
家康の死後、正純は江戸城に入って引き続き幕政に大きな発言力を持ち続けた。
これは首相が代わって内閣もほとんど総入れ替えになったのに、官房長官だけは引き続き居座り続けるようなもので、もとから江戸城にいた同僚たちから敵視されるのはごくごく当たり前だった。
このように正純が軋轢を起こすのは、どうも父・正信にとっては予想済みであったらしい。
というのも、遺言として「私の三万石を継ぐのはかまわないが、それ以上の所領を得てはいけない」と言い残しているからだ。彼らのような立場の人間が大きな所領を得れば、さらに周囲とぶつかることになる、と思ったのだろう。
しかし、正純は1619年(元和5年)に下野国宇都宮藩15万5千石を与えられる。これが正純にとっては破滅の第一歩となった。
その後、宇都宮城を大きく改築するとともに、城下町の整備も行っている。城の改築に着手した理由は、1622年(元和8年)の家康七回忌に日光東照宮で開かれる大祭に秀忠も参加する予定になっていたからのようだ。
そしてその往復の際に宇都宮城で宿泊することになっていたためとされる。
ところがその際、秀忠は帰り道では宇都宮に寄らなかった。
そして正純は出羽国山形藩主の最上義俊が改易となったためその城の受け渡し処理を命じられ、一仕事を終えたところで、突然出羽国への転封を命じられたのである。しかし彼はこの新知行地を固辞したため、配流となり出羽国久保田藩主の佐竹義宣のもとへ身柄を預けられることになった。
事件はやがて物語ヘ
この時、正純には「本丸の石垣を無断で改修したこと」「警護のために鉄砲を密かに買い込んだこと」「幕府の客分数名を始末したこと」という3つの罪状が突きつけられ、これを否定することができなかった。しかし、これらはすべて、秀忠を迎える準備を急ぐためだったのである。
これは明らかな罠であった。『徳川実紀』も「この人の罪たしかならず」としている。
何らかの役目を与えて本拠地から離し、しかる後に処分を突きつけるというのは大久保忠隣のケースとまったく同じであり、あの時に正信らが仕掛けた罠がそっくりそのまま息子の正純に返ってきた、と考えるべきだろう。
その背景にはもちろん正純を敵視する同僚たちがいたのだが、また秀忠の姉にあたる加納殿もかかわったとされる。彼女が秀忠に直接、あるいは秀忠の正室であるお江与(江)を介して送った手紙こそが、秀忠が帰路に宇都宮へ寄らず、かつその後の処分をするにいたった原因だったのでは、と考えられているのだ。
というのも、加納殿の娘が大久保忠常(忠隣の子)に嫁いでおり、かつ正純が宇都宮に入ったことで転封された奥平忠昌は孫にあたったのである。加納殿が本多一族を敵視しても、まったく不思議ではない。
その後、巷間に「宇都宮釣天井物語」と呼ばれる物語が語られるようになった。
これは「徳川忠長を将軍にしたい正純が、ライバルである家光を暗殺するため、宇都宮城に釣天井の罠を仕掛けたが露見。正純は屋敷を焼いて自決した」というもので、当然のことながらまったくのフィクション、俗説である。正純が勝手に宇都宮城を改築した、秀忠が宇都宮城に泊まった際にいくつか奇妙なことがあった、老中が宇都宮城を調査した(しかし、この際には何も見つからなかったようで、処罰は下されていない)などの史実をもとに創作されたものと考えられる。
こうして、宇都宮藩本多家はたった一代で改易となってしまった。正純は佐竹家の支援を受けつつ、幽閉されたままでこの世を去った。
だが、正信・正純親子の貢献に対する評価があったのか、本多家という名門を絶やさないためか、あるいはそもそもこれが陰謀によるものであったためか、正純の孫にあたる正之は旗本に取り立てられて、その血筋が幕末まで続いている。
また、正信の弟・正重によって継承された分家は、一時期、寄合旗本(ふつう無役で3千石以上。名門とされる)に落ちていたことがあるが、やがて大名に復帰し、明治維新まで存続した。
正純の弟・政重は宇喜多・福島など諸家に仕え、最終的には前田家中の重臣として厚く遇されている。