持明院統と大覚寺統
久明親王は後深草天皇の第六皇子で、1289年(正応2年)、惟康親王に代わって征夷大将軍となった人物である。
先代と同じく、彼も将軍就任時代に特筆すべきエピソードはない。将軍時代の業績としてわかっているのは、寺社への参詣などの儀礼的活動ばかりである。1308年(延慶元年)、将軍職を辞めさせられて京に戻され、仏門に入ってその後の生涯を送った。
京での暮らしについてはよくわからないが、歌道の名門である冷泉家の娘との間に子を儲けていることから、結構のびのびと暮らしていたのではないか、という見方もある。
代々の将軍と同じく、久明親王もまた北条得宗家の傀儡であった。彼が将軍であった時代に北条氏内部での抗争が勃発し、連署の北条時村が「将軍の命である」と主張するものによって殺害される、という事件が起きた。これが本当に久明親王の意思であれば彼の存在に一定以上の意味があったといえようが、実際にはただの御輿として扱われていただけに過ぎなかったのだ。
ただその一方で、この人が将軍になったことには意味があった。その理由は彼個人ではなく血統にある。
この時代、皇統は「大覚寺統」と「持明院統」のふたつに分裂しており、それはやがて鎌倉幕府の崩壊と南北朝の内乱にもつながっていく大問題であったのだ。
そもそもの始まりは後嵯峨上皇にあった。
宗尊親王の項で紹介したように、この人の次は後深草天皇、続いて亀山天皇と皇位が継承されていったのだが、後嵯峨上皇としては性格に陰湿なところのある兄・後深草上皇よりも、明るく健康的な弟の亀山天皇を寵愛していたらしい。その次の皇位を亀山天皇の子と定めてもいる(のちの後宇多天皇)。
ところが、後嵯峨上皇は兄弟のどちらに朝廷の実権を渡すか(これを「治天の君」という)を決めないまま亡くなってしまった。幕府の介入もあり、とりあえず後宇多天皇の即位は決まったものの、以後両者はどちらの血筋から天皇を出すか、どちらが朝廷の主導権を得るか、さらには天皇のものである広大な荘園をもめぐって、争うことになったのだ。
後深草の血筋を持明院統、亀山の血筋を大覚寺統という。前者は後深草の、後者は後宇多の居所が由来となっている。
久明親王が将軍になった背景
1288年(正応元年)、幕府の意を受けて後宇多天皇の後に天皇となったのは、後深草上皇の皇子である伏見天皇だった。亀山上皇が進めていた朝廷改革が幕府にとって不快であったこと、持明院統が積極的に対幕工作を繰り広げていたことなどが原因だったようだ。
翌年、将軍として迎えられたのが後深草天皇の皇子である久明親王だったのだから、この意図は明白である。幕府は天皇と将軍を持明院統で揃えたのである。ちなみに、惟康親王は後深草の血筋でも亀山の血筋でもないが、妹が後宇多天皇の後宮に入っていた関係から大覚寺統の一派に属する、と考えるべきだろう。
この大覚寺統からついに後醍醐天皇が現れ、鎌倉幕府を倒す――とあっては、久明親王の将軍就任が決して小事ではなかったことがわかってもらえるだろう。
もちろん、別に幕府はずっと持明院統支持ではなく、大覚寺統寄りになった時期もあったため、このことを過大評価するのも危険ではあろうが。
「両統迭立」と及び腰の幕府
持明院統と大覚寺統はその後も天皇の座をめぐって争った。
1290年(正応3年)には数人の武士が内裏に乗り込んでの伏見天皇暗殺未遂事件が発生している。この際、黒幕は大覚寺統なのでは、という憶測が立った。
ただ、犯人が自殺した際に使った刃物は時の将軍である久明親王の親族のものというのが、別の形の陰謀を想起させもするのが微妙なところともいえそうだ。
伏見天皇の次はその子の後伏見天皇。しかし、次は大覚寺統に移って後宇多天皇の子、後二条天皇。さらにその次が持明院統に戻って、後伏見天皇の弟の花園天皇。
このころには大覚寺統寄りであった幕府は、両派の争いを収めようと「両統迭立」を提案した。これは、「天皇を順番に出しましょうよ」という手打ち案で、このときに天皇を出していない大覚寺統に有利な形であったといえよう。そうでなくても、この時期の幕府には問題が山積し、朝廷にまで争われては困る、と思ったのかもしれない。
結局、持明院統と大覚寺統は幕府の勧告に従い1317年(文保元年)に「文保の和談」と呼ばれる協議をしたものの、これが決裂。両統の争いはさらに続く(ただ、大覚寺統からの後醍醐天皇即位は通っている)。
この際、幕府は「皇位継承争い」にはかかわらないと責任問題を朝廷に押し付けるような逃げの宣言をしており、幕府の衰退を感じさせる一事といえよう。