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【歴代征夷大将軍総覧】鎌倉幕府初代・源頼朝ーー心を鬼とし、武家政権の礎を築く 1147年~1199年

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命は救われて……

頼朝は源氏の棟梁であった源義朝の三男で、母親の身分が高かったことから嫡男として扱われていた。
そのまま何事もなければ、問題なく家督を継承し、源氏の長となったことであろう。
しかし彼が13歳のとき、父・義朝は平清盛と「平治の乱」で争って敗れ、東国ヘ逃げようとしたものの、殺されてしまう。幼くして平治の乱に出陣し、2人を射落としたという頼朝もまた、父と同じように東国への逃亡を図って、捕らえられた。
普通ならそのまま殺されてしまうところなのだが、清盛の継母・池禅尼(いけのぜんに)や清盛の嫡男の重盛といった人々が頼朝を気に入り、熱心に助命嘆願を行ったため、伊豆への流罪で許された。

女好きの性格が頼朝の運命を開く?

流刑地での生活は楽ではなく、生活用品に困って借りにいくようなこともあったようだ。
そんな中で、ある意味頼朝の運命を変える事件が起きる。
まず、当地の豪族・伊東祐親(いとうすけちか)の娘と親密になって子ができたことから、巻き添えになって平氏に敵視されることを嫌った祐親に殺されかけた。

この危機から逃れた頼朝は、今度は別の豪族・北条時政(ほうじょうときまさ)の娘の政子と情を通じてしまう。この政子は女傑というにふさわしい女性で、頼朝との関係に気づいた父が縁談を仕組むや、頼朝とともに伊豆山神社(走湯山権現とも)に立てこもってしまったという。
ここには多数の僧兵がいたので、時政たちも手出しはできない、というわけだ。のちに政子が娘を産むと、時政もあきらめて2人の仲を認めた、とされている。こうして手に入れた妻と、後ろ盾としての北条氏が、頼朝の躍進を大いに助けることになる。

ただ、これでやめておけばいいものを、頼朝の女好きはどうやら相当のものであったようだ。
伊豆時代からすでに亀前という妾を寵愛して政子の嫉妬を買い、のちに政子が彼女の家を叩き壊させたとか。恋文を送った相手が別の男へ嫁入りさせられてしまったので、その父親にプレッシャーをかけたとか。頼朝の子を身ごもった女性が政子によって追い出されたとか(ただ、このケースでは相手の女性が頼朝に近い血筋だったことから、将来の政争を予見して排除したのではないか、という見方もある)。
とかく、女性にまつわるエピソードには事欠かない頼朝なのである。

山あり谷あり、波瀾万丈の挙兵

頼朝が反平氏の軍を挙げたのは1180年(治承4年)、従兄弟の源義仲と同じく以仁王の令旨を受けてのことであった。
そこから源平の戦いが始まるわけだが、そう単純に話は進まなかった。伊豆における平氏勢力は駆逐できたものの、源氏にとってゆかりの地である相模国の鎌倉に拠点を築くべく移動中、石橋山で平氏方勢力に包囲され、散々に敗れてしまったのである。

このとき、平氏方の梶原景時が山中で頼朝を発見したものの、なぜか逃がしてしまったので、頼朝は九死に一生を得ることになった。
その後、勢力を回復した頼朝は景時を傘下に加えると「一番の部下」というほどに大変重用した。平氏征伐に向かった源義経につけられて彼とたびたび対立して讒言し、ついに頼朝・義経兄弟が決別する原因を作ったとされることでも有名である。
すなわち、頼朝は弟よりも景時を信じたわけで、このときの一件が大きかったのかもしれない。そしてなぜ景時が頼朝を逃がしたのか。これは謎とされているのだが、もしかしたら頼朝の将来性に賭け、将来自分が出世するための布石を打ったのかもしれない。

実際、頼朝はあきらめなかった。海を渡って房総半島の突端である安房国へ逃げ延びると、陸路で上総・下総を経て武蔵国に入るという過程で、各地の武士たちを自らの支配下に収め、その軍団を急激に拡大していく。
これはもともと関東の武士たちの主である源氏の嫡流という権威が有効に働いたためでもあろうが、それだけでなく頼朝の外交力・交渉力が卓越していた証左でもあろう。

たとえば、合流に先んじて平氏方に反旗を翻していた下総国の千葉常胤(ちばつねたね)に迎えられた際には感激して「父親のように思う」とまで言ったという。
一方、上総国の有力者である上総広常(かずさひろつね)が散々遅くなった末に2万という大軍を引き連れてやってきた際は援軍を喜ぶどころか激怒し、強く叱責した、とされる。これは源氏と平氏を天粋にかけてどちらをとるか計算していた広常の内心を見抜いたものであろう、広常はすっかり圧倒されてしまった。

もちろん、こういう物語的なエピソードだけで関東の武士たちが頼朝に従ったわけではあるまい。実際には、彼ら自身に平氏や在地の他勢力との間にさまざまな利害関係があり、そこから頼朝に従う道を選んだのだと考えられている。しかし、頼朝という男が、源氏の権威を活用しつつ、政治的なセンスを発揮して勢力を伸ばしていったことは間違いない。
かくして屈強で知られた坂東武者たちをまとめて鎌倉に入った頼朝は、いよいよのちの鎌倉幕府につながる基盤作りを始めた。頼朝は源氏の嫡流ではあったが、たとえば義仲が頼朝に従おうとしなかったように、各地の源氏は必ずしも頼朝の部下ではなく、独自に活動していたのが実際のところだ。
頼朝は平氏だけではなく源氏も相手にしつつ、源平の戦いの主導権を握るべく活動していく。

これを危険視した平氏政権も大軍を擁して頼朝を討とうとするのだが、両軍が雌雄を決するはずの駿河国・富士川の戦いは意外な結末を迎えた。
坂東武者たちの恐ろしさにおびえていた平氏の軍勢は、水鳥が一斉に飛び立つ音を敵襲と錯覚し、戦わずして逃走してしまったのだ。頼朝の運の強さ、坂東武者の威名を表す有名なエピソードである。

平氏を滅ぼし、源氏を制し、朝廷を封じ……

この後も源氏と平氏を中心として各地で争いが続くわけだが、実のところ頼朝は源平の合戦にはあまり積極的には関与していない。
京を源義仲から解放し、京奪還を図る平氏を西国へ追い返し、ついに壇の浦で平氏の滅亡を見届けるに至ったのは、頼朝の弟である源義経や源範頼であって、頼朝自身ではない。富士川の戦いで平氏の大軍を破って以後、頼朝は基本的に鎌倉にいた。そこで、関東各地の有力武家を押さえ込んで支配下とし、また後白河法皇に東国の支配権を認めさせるなど、勢力固めに邁進していたのである。軍事・警察的機構として侍所を設置するなど、のちの鎌倉幕府の原型がこのころにはもう誕生している。

やがて平氏が滅ぶと、頼朝の敵は自らの権力を確立しようと企む後白河法皇や、平氏討伐の功績を誇って勝手な振る舞いの目立つ弟・義経らになり、丁々発止のやり取りが繰り広げられた。たとえば、頼朝が後白河法皇から先述した守護・地頭設置の許可を引き出したのは、「後白河法皇が義経に勝手に頼朝討伐の命令を出した」ことの責任を追及する中でのことである。
これらの対立の中で義経はかつて少年時代に庇護されていた東北の独立勢力・奥州藤原氏を頼って逃げたが、頼朝の圧力に屈した藤原氏によって殺害されてしまう。それでも頼朝が藤原氏を許すことはなく、大軍によってこれを滅ぼした。

実際、頼朝が以前から要望していた征夷大将軍に任ぜられたのは、藤原氏を攻め滅ぼした後、さらに後白河法皇が没してからだった。
将軍の役職はあくまで名目上のものであり、鎌倉を中心として全国を支配する機構としての鎌倉幕府はすでに成立していたという。また、義経と藤原氏が滅んだ後は頼朝と後白河法皇の関係は良好になっていたともいう。それでも、やはり後白河法皇と朝廷は「天皇の代理人」に成り得る征夷大将軍という名を与えるのに躊躇っており、頼朝がこの地位を得るには「東」の敵である藤原氏を倒すという功績と、後白河法皇の死が必要だったのではないか。
ちなみに、頼朝は将軍就任を命じる書類を受け取った際、朝廷からの使者に砂金を与えており、以後これが江戸幕府・徳川将軍の時代に至るまで慣行として残ることになった。

頼朝はなぜ死んだ?

流刑の身から出発し、父の仇である平氏政権を打ち倒し、朝廷を封じ込めて、その後永きにわたって続く武家政権の礎を作り上げた稀代の英傑、源頼朝――そんな彼の死には謎が多い。死因が何だったのか、どうにもハッキリしないからだ。
最も有力なのは『吾妻鏡(あずまかがみ)』に見る「落馬後、まもなく亡くなった」という記述をもとにする「落馬説」である。ただ、これについても、落馬で何かの障害、たとえば脳出血などを患ってそれが死につながったのか、それとももともと何かの障害があって、それが原因で落馬したのか、史料は何も語ってくれず、ハッキリしない。
そもそも『吾妻鏡』の記述は落馬と死の因果関係を明確に示したわけではないのでは、という意見さえあるのだ。

一方、公家の日記である『猪隈関白記(いのくまかんぱくき)』には「のどが渇いて尿の通じない病気」で亡くなったという記述があり、これは現代でいう糖尿病のこととされる。また、これ以外の複数の公家の日記にも、「病気で亡くなった」という記述が見られるので、少なくとも幕府としての公式発表は「病死」であったのだろう。
これらの史料の記述が全体的にどうにもあやふやであるため、「何か不名誉な死因だったのでは」という推測も生じている。たとえば、徳川家康が『吾妻鏡』の頼朝の死に関する記述を破り捨てた――理由は「不名誉を後世に残してはいけない」だった、などというエピソードまで伝わっているのだ。

さらに、「怨霊説」というのもある。頼朝が鎌倉幕府を作り上げるまでの間、多くの人々が非業の死を遂げた。平氏一門がそうだし、彼らに擁立された挙旬に壇の浦で入水自殺することになった幼い安徳天皇もそうだし、弟・義経もそうだ。彼らが恨みのあまり怨霊となって、頼朝を祟り殺した、というものである。
もちろん、本当に怨霊が頼朝を殺したとは思えないが、多くの人がそのように信じたくらいの犠牲者を生み出した上にその偉業はあった、というのは事実であろう。

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