東の平将門、西の藤原純友に対すべく
死に際して参議の職を贈られており、高位の公卿であると考えてよいだろう。68歳にして将軍に任じられ、将軍就任時年齢としては最高齢であるとされる。
藤原忠文(ふじわらのただぶみ)という人が将軍になったのは、935年(承平5年)から941年(天慶4年)にかけて起きた「承平・天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)」を受けてのことである。東では平将門(たいらのまさかど)が「新皇」を名乗って関東八ヶ国を席巻し、西では海賊大将・藤原純友(ふじわらのすみとも)が伊予の海賊を率いて反乱を起こしたのだ。この両者はそれぞれ、本来は朝廷に反抗する勢力を抑える立場だったのだが、さまざまな事情から自らが反抗勢力になってしまった。
彼らは別に共謀して同時期に乱を起こしたというわけではなかったのだが(少なくともその証明はされていないようだ)、朝廷の人々は「将門と純友が共謀して乱を起こし、東西から京を挟み撃ちにするつもり」なのだと信じたようで、大いに恐慌状態に陥った。
そうでなくても、将門は桓武天皇の5代先の子孫という血筋を主張し、「武力によって天下の半分を手に入れる」と主張したから大問題だ。神の末裔である(と信じられていた)天皇の権威によって日本を支配してきた朝廷に対して、「武力」という実力を武器に敢然と反旗を翻したのだからそれも当然である。
朝廷としてはなんとしてもこれを鎮圧して、天皇の権威が揺るがないようにしなければならなかった――かくして、939年(天慶2年)に将門が新皇を名乗るとその翌年、百数十年ぶりに忠文が征東大将軍(征夷大将軍)に任命される。しかも、将門が倒れるとすぐさま征西大将軍に任命されることとなったのである。時の朝廷が承平・天慶の乱をどれだけ恐れ、警戒したかがわかるというものではないか。
将門の征伐にあたって忠文が就いた役職については史料によって記述が分かれ、征東大将軍としているものもあれば、征夷大将軍としているものもある。前者とする説のほうが有力なのだが、概論で紹介したようにそもそもこの2つの役職名はそれぞれの別名のような存在であることから、本書では彼を征夷大将軍のひとりと数え、ここで紹介している。ちなみに、後に征夷大将軍として鎌倉幕府を開いた源頼朝も、忠文を自らに先行する征夷大将軍のひとりと考えている。
実際の功績はナシ?
ただ実際のところ、忠文は将門や純友の討伐に何か大きな関与を果たしたわけではないようだ。そもそも68歳という年齢の時点で、彼に期待された役割は最初の征夷大将軍・大伴弟麻呂のような後方からの指揮・監督であったろうが、それを行うこともなかったろう。
というのも、忠文が節刀を与えられたわずか1ヶ月後、将門は従兄弟にあたる平貞盛(たいらのさだもり。その末裔は後に平氏政権を作り上げる平清盛)と、大ムカデ退治の伝説で有名な藤原秀郷の連合軍と戦い、流れ矢が頭に当たって討ち死にしているのだ。これで何らかの働きを行い得たとは思われない。
将門の死後に関東へ到着した忠文は、残党の討伐など戦後処理を終えて京へ戻ると、すぐさま純友の反乱を討伐するため征西大将軍に任命された。
これについては、将門征伐が実質的に空振りに終わって名目上の「将軍」になってしまったものを、純友征伐という実質的なものに代えてやろうという朝廷側の配慮だったとする説もある。しかし、忠文以外にも将門征伐に参加したものの多くが純友征伐にも参加したことから、単純に遠征の経験を積んだ将門対策の征東軍を純友対策の征西軍に振り替えて活用しようとした、という説のほうが妥当のように思われる。
しかも結局のところ、忠文は征西大将軍としても積極的な働きはしなかったようだ。純友征伐において実を上げたのは小野好古(おののよしふる)らの活躍であったとされている。70歳近い年齢を考えれば、それはやはり当然のことであろう。
悪霊となった征夷大将軍
このようにハッキリとした功績を残さなかったことからか、忠文についてはちょっと恐ろしい伝説が残っている。
ふたつの反乱を鎮圧して京に戻った忠文だが、征東大将軍と征西大将軍を立て続けに経験したにもかかわらず、恩賞を与えられなかった。これを怨んだ彼は、死後に悪霊となって、自らに恩賞が与えられるのに反対したとされる藤原実頼(ふじわらのさねより)の子女に祟りをなした、というものだ。
そのため、役職名から「悪霊民部卿(あくりょうみんぶきょう)」なる異名を奉られてしまったというのである。