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【歴代征夷大将軍総覧】文室綿麻呂――蝦夷征伐の最後を飾った将軍 765年~823年

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田村麻呂に救われて……

文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)の文屋氏は天武天皇の子から始まる皇親氏族で、何度か姓が変わり、綿麻呂以降は文室氏が定着したようだ。
彼の運命が大きく動いたのは、810年(弘仁元年)の「薬子の変(くすこのへん)」のときのことである。体調不良から天皇の座を弟に譲ったばかりの平城太上天皇(へいぜいだいじょうてんのう。乱の名前は彼の寵愛を受けた藤原薬子に由来する)と、譲られた当人である嵯峨天皇が天皇の地位をめぐって争った際、綿麻呂は太上天皇派で、あっさり逮捕、投獄されてしまった。

ところが、追い詰められた太上天皇が東北に逃げようと企んだ際、嵯峨天皇の命を受けて追撃にかかったその腹心・坂上田村麻呂が特に赦免と同行を願ったのが彼、綿麻呂であった。
実は綿麻呂はこれ以前の蝦夷征伐に際して田村麻呂の下で戦ったらしく、また時の桓武天皇からも高く評価されていたようなのだ。すなわち、この薬子の乱の以前から田村麻呂は綿麻呂を見知っており、「東北で勢力争いをするなら役に立つ」と目をつけていた、ということになるのだろう。
実際、田村麻呂と綿麻呂は太上天皇が東北に逃げて態勢を整えようとするのを阻止し、出家へ追い込んだのだから、この判断は正解だった。結果、綿麻呂は功績を評価されて公卿に加えられ、やがて再び蝦夷征伐にかかわることになるのである。

毒をもって毒を制す

これ以前、朝廷による東北支配は穏健路線に移っていた。しかし綿麻呂が陸奥出羽按察使(むつでわのあぜち。東北方面の最高責任者)となると、再び征伐による強硬路線へと回帰することになる。そしていよいよ新たな蝦夷征伐が決定されたのが811年(弘仁2年)のことだ。
ただ、この際に綿麻呂が任じられた役職は「征夷将軍」であった。また、節刀の授与も行われていない。しかも、それまでの征伐のように東北以外の地域から兵を集めることなく、軍勢の規模自体も2万にとどまった。

この征伐はあくまで「東北地方の問題」であり、田村麻呂時代のような国家事業とは位置づけられていなかった。それでも綿麻呂が征夷大将軍のひとりに数えられるのは、「蝦夷征伐の最後を飾った」という名誉のためであろう。この征伐によって東北地方の混乱はとりあえず静まり、38年にわたって続いてきた朝廷と蝦夷の戦いは一段落する。
とはいえ、実際の戦いは俘囚(ふしゅう)、すなわち元は蝦夷だった兵が中心であった。また蝦夷同士でも相争っていたので、ある蝦夷の部族が敵対勢力と戦うために朝廷側へ援助を求めるようなこともあり、この複雑な関係性を利用し、蝦夷同士の不仲を突く形で朝廷軍は侵攻を続けている。いわば「敵の敵は味方」「毒をもって毒を制す」というのが、この征伐における基本的な方法論だったわけだ。

変化していく中央と蝦夷の関係

先に「とりあえず」という言葉をつけたとおり、蝦夷との戦いが完全に終わったわけではなかった。
彼らのすべてが朝廷の支配を受け入れるには今しばらくの時間が必要で、たとえば811年(弘仁2年)の征伐で朝廷側に味方した部族が、その後反乱を起こしたケースもある。また、813年(弘仁4年)には綿麻呂自身がもう一度征夷将軍に任命されて反乱の鎮圧を行うことにもなった。

さらに878年(元慶2年)には「元慶の乱(がんぎょうのらん)」という大規模な反乱が起きている。この際には出羽国の俘囚たちが結集する大きな事件となったのだが、名官僚・藤原保則(ふじわらのやすのり)と名将軍・小野春風(おののはるかぜ)が硬軟取り混ぜた対応によってこれに対処し、戦わずに鎮圧することに成功している。
田村麻呂や綿麻呂の時代には征夷大将軍(征夷将軍)が武力によって対処したであろう大事件が、(武力を背景にしつつも)朝廷の権威を前面に出すことによって解決されたわけだ。このことは、時代の変化を明確に表している、といっていいだろう。すなわち、征夷大将軍――蝦夷を武力で征伐する役職は、この時すでにその役目を終えていたのだ。

保則の伝記には、「このような反乱(元慶の乱のこと)は、坂上田村麻呂将軍がよみがえってきても鎮圧することはできなかっただろう」といった意味の記述がある。これは伝説の武人である田村麻呂の名前と比較して保則を持ち上げているのだろうが、どこか象徴的な意味合いにも感じられる。征夷大将軍の時代は終わっていたのである。
綿麻呂以後、百数十年にわたって征夷大将軍(征東大将軍)の役職は姿を消す。次に世に現れるのには、古代日本における最大級の反乱劇――平将門と藤原純友による「承平・天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)」を待たなければならない。

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