【時期】1770年(明和7年)~1781年(天明元年)
【舞台】高島藩
【藩主】諏訪忠厚
【主要人物】千野兵庫、諏訪大助
農政改革の失敗がきっかけで二の丸家と三の丸家が対立
二の丸騒動とは、高島藩諏訪家で起こったお家騒動のことだ。
騒動の名前になっている「二の丸」とは、事件の主要人物である諏訪家家老の諏訪図書・大助父子らが高島城二の丸に居を構えていたことから、そのように呼ばれている。
そして、彼ら二の丸一派と対立することになったのが、三の丸に居を構える一派だった。こちらは千野兵庫という家老が中心となっており、両派は藩内を二分する勢力となっていた。
二の丸家は初代藩主・頼水の弟である頼雄に連なる家系で、家臣でありながら主家とは血縁関係で結ばれていた。
一方の三の丸家も、戦国時代から続く由緒正しい家系である。
当然ながら家風や方針の違いがあったものの、この二つの勢力は最初からいがみ合っていたわけではなかったようだ。むしろ四代藩主・忠虎の頃までは、互いに主君を支え合う形で協力していたといっていい。
だが五代藩主・忠林の頃になると、雲行きが怪しくなってきた。忠林は藩政に関心がなく、その大半を家臣任せにしていた。
またその次の藩主・忠厚も病弱で、藩政を家臣に頼るところが多かった。
このように藩政の大部分を家臣が担うようになると、それを任せられた両家の意見の対立は増えていったのだ。
特に深刻になったのは忠厚の時代である。
この頃、藩の財政は逼迫していた。そこで政権の中枢にいた千野が、藩を貧窮から救うため農政の改革を行った。
検地の実施や新田の開発などがそれにあたる。
しかしこの改革は農民への税負担が重く、不満の声が上がった。
さらに商品流通を発達させたことにより、有力商人らが藩政へ関わってくることとなり、その中で賄賂の応酬が盛んになった。これも農民らの不満を増長させる原因となる。
そこで二の丸家の大助が、町村にお触れを出し農民からの意見を求めた。そこにはもちろん賄賂に関する批判も集まり、大助はこれを理由に関係者を処罰していった。
これは農民のためというよりも、千野を政権から追いやりたかった大助らの画策が成功したものだったといえる。
この一件で、藩政の中枢は千野から図書・大助父子へと移っていった。
そして1771年(明和8年)からの8年間、父子は政権をほしいままにすることになったのだが、依然として賄賂や横領などの黒い噂は絶えなかった。
そのような状況を知り、二の丸派の専横を止めるべく動いたのが、他でもない彼らによって退けられた千野であった。千野は江戸にいる藩主・忠厚のもとへ赴き、高島藩が二の丸家の藩政によって乱れていることを訴えたのだ。
これにより、勢力は再び逆転した。図書には謹慎、大助には家老免職という処罰が与えられ、代わりに千野が政治の場に復帰したのである。
後継者問題浮上で対立が再燃する
こうして二の丸家と三の丸家の政権争いも一件落着……となれば良かったのだが、そうはいかなかった。この対立は、今度は藩主の後継者争いという形で激化してしまう。
忠厚は福山藩主・阿部正福の娘を正室に迎えていたものの、彼女との間には子が生まれなかった。
忠厚の子を生んだのは2人の側室で、トミという女性との間に長男・軍次郎が、キソという女性との間に次男・鶴蔵が誕生している。
後継者問題が持ち上がったのは、軍次郎が14歳、鶴蔵が11歳の時だ。
忠厚の義父にあたる正福が年始の挨拶に訪れた時、そろそろ後継者の相続手続きを行う頃合いではないかと言ったことがきっかけとされる。
年功序列を考えるなら、軍次郎が後継者となるのが当然のことと思われた。しかし忠厚は次男の鶴蔵を寵愛しており、軍次郎に家督を譲ることを渋っていたのである。
これを知った千野は事態の成り行きを心配し、忠厚らの住まう江戸へ向かった。
ところがこれが「勝手な行動」とみなされ、千野は隠居させられてしまう。
千野に対してこのような厳しい処分が行われたのは、裏で諏訪大助をはじめとする二の丸家が動いていたからだったようだ。閉門の身となっていた大助は権力を取り戻す機会を探っており、忠厚の寵愛する鶴蔵を次期藩主として推すことで、自身の政権復帰を狙ったのだった。
そのため二の丸家の者たちは忠厚に対し、「千野が謀反を企てている」などと嘘の報告をし、自身の政敵である千野の排斥をも目論んだのだ。
結果的に、大助のこの目論見は見事に成功した。
千野は失脚し、大助とその父・図書はまたしても藩政に携わることを許されたのである。
さらに二の丸家は、忠厚の正室が長男・軍次郎を次期藩主にと主張したため、彼女を疎んじて忠厚と離別させるなど、邪魔者は徹底的に排除して完全に藩政を掌握するに至った。
しかし無実の罪で失脚させられた千野が、そのまま黙っているはずもなかった。
千野は隠居を命じられながらも協力者を集め、監視の目をくぐり抜けて密かに江戸に向かったのである。
幕府に直接訴えようものなら、諏訪家は改易の危機にさらされる。そのため千野は、忠厚の妹婿にあたる西尾藩主・松平乗寛に協力を求め、諏訪家との交渉を開始。一方、千野を擁護する家臣らも江戸に赴き、彼の政権復帰を訴えた。
その結果、千野が国元を出発してから4ヶ月後の1781年(天明元年)12月、ついに忠厚の隠居と軍次郎の藩主就任が決定、大助らに切腹や討首の処分が下されたのである。
長きにわたった騒動が、ついに決着をみたのだった。
軍次郎の藩主就任自体が騒動の決着地点だったかといえば、そうではないだろう。
後半のお家騒動は確かに後継者をめぐるものではあったが、その根底にあったのはやはり家臣同士の勢力争いである。後継者争いは、むしろそこに巻き込まれて引き起こされた事件だともいえる。
大助らに下った処罰が切腹や討首ではなく隠居だったとしたら、自身の政権復帰と相手の失脚を狙う争いは、まだ続いていたかもしれない。