いま私たちが見ているお城イメージするお城は近世城郭(きんせいじょうかく)と呼ばれるお城です。
これは織田信長が築いた安土城で完成され、羽柴秀吉のちの豊臣秀吉が全国に普及したと言われています。
これを織豊系城郭(しょくほうけいじょうかく)と言います。
現在のお城のイメージの礎となった織豊系城郭について、今回は学んでいきましょう。
近世城郭(きんせいじょうかく)の始まり
近世城郭(きんせいじょうかく)というのは、水堀で囲まれて天守がそびえ立つというのが一般的なイメージです。
これは織田信長(おだのぶなが)が築いた安土城(あづちじょう)によって完成されたと考えられています。
安土城は天正4年(1576年)に築城されました。
織田信長の出身地である尾張(おわり)には濃尾平野(のうびへいや)が広がっており、平地に城が築かれていました。
一方で、近江(おうみ)などを中心に石垣を用いた山城が作られており、また松永久秀(まつながひさひで)の多聞城(たもんじょう)で初めて多聞櫓(たもんやぐら、多門櫓とも書く)が築かれたり、天守ぐらいの大櫓が建てられていました。
どれもも近世城郭にあるものですが、これらは各地においてそれぞれの発展をしてきたものでした。
それを新しい城という形に集約させたのが織田信長です。
新しい城作り
織田信長は城作りだけでなく兵農分離(へいのうぶんり)も進めていました。
専門職としての武士や兵隊を作るということです。
そのため、それらの武士を常備軍として収容するための平地や施設が必要となりました。
これが広大な平山城(ひらやまじろ)や平城(ひらじろ)を居城とするきっかけとなりました。
信長独自の本格的な築城は愛知県にある小牧山城(こまきやまじょう)がスタートだと、近年の発掘調査からわかってきています。
その後、岐阜城(ぎふじょう)の改修にあたっても中世城郭(ちゅうせいじょうかく)の特徴の一つでもある山麓と山頂部分での二元構造を維持しながら、新しい取り組みをしていることも近年の発掘調査から分かっています。
そして安土に移って安土城で近世城郭の完成を見たのです。
それらは、城の中心部には石垣を用いて本丸には天守を、城内には城主の居館である御殿を設けました。
また小牧山城築城の頃から城下町の建設も始まっています。
近世城郭の普及
安土城で完成した近世城郭が信長の手によって普及したかと言うと、そうではありません。
なぜなら、安土城築城後に本能寺の変によって織田信長が亡くなってしまったからです。
この後、政権は一気に羽柴秀吉(はしばひでよし)のちの豊臣秀吉(とよとみひでよし)に取って代わることになりますが、秀吉が築城した大坂城や朝鮮出兵のために作られた名護屋城(なごやじょう)などは諸大名を動員した天下普請(てんかぶしん)によって築かれています。
これが近世城郭の普及や築城技術の発展に大きな影響を及ぼしました。
近世城郭の築城の仕方を知らない諸大名が天下普請によって実際に城を作ることによって、城の作り方や考え方などを学んでいったのです。
また朝鮮で作られた倭城(わじょう)など戦いのための城が朝鮮出兵の後に逆輸入されるということもあり、発展を遂げていきました。
例としては毛利輝元の広島城や宇喜多秀家の岡山城などがあります。
このように織田信長によって完成され、豊臣秀吉によって普及・発展してきた城のことを織豊系城郭(しょくほうけいじょうかく)と言います。
まとめ
近世城郭は織田信長の天下統一事業によって完成を見ました。
そしてそれを全国に普及させたのが豊臣秀吉です。
戦が国境の小競り合いから大規模戦争へと移行するのに合わせて、城の形も変わっていき近世城郭が完成していったと考えられます。
ということで、織豊系城郭というお話でした。
じゃあね🖐️
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