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【江戸時代のお家騒動】竹鉄砲事件 人吉藩の勝利者なき内ゲバ闘争

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【時期】1759年(宝暦9年)
【舞台】人吉藩
【藩主】相良頼央、相良頼峯
【主要人物】相良頼央、相良頼峯

藩財政改革をめぐる対立が発端

竹鉄砲事件は人吉藩の八代藩主・相良頼央(よりひさ)が暗殺された事件である。
にもかかわらず大きな騒動にならなかった。この事件が家老によって隠蔽されてしまったからだ。

事の起こりは1756年(宝暦6年)、まだ頼央の養父・頼峯(よりみね)が藩主だった頃に遡る。
この頃、相次ぐ自然災害や江戸藩邸の修理費などによって、藩の財政は逼迫している状況だった。
財政を立て直すため、江戸にいる頼峯に代わって相良家の家老らが、希望する藩士らに御手判(おてはん)銀を貸し付けると発表した。元利の返済を藩士の知行から天引きするというもので、これを聞いた藩士らはほとんどが喜んだという。

ところが相良家の一門が、この案に反対を示した。この方法だと藩士たちの手取りは結局半減してしまうため、かえって彼らの生活は苦しくなると主張したのだ。もともと家老と一門は反発しあうことが多かったのだが、この一件が拍車をかけ、対立は激化する。
藩士らの大半は家老を支持したため、こちらを大衆議と称し、一門を小衆議と称した。

家老派 vs 一門派が激化、ついに藩主暗殺計画が発覚

大衆議と小衆議の対立はその後も続き、そこにさらに藩主相続問題が絡んで複雑な事態となる。
当時の藩主である頼峯には実子がいなかった。しかし藩主が江戸から下国する際は、もしものことがあった時のために、後継者を決めておくという決まりになっている。そのため、頼峯は弟の頼母(のちの頼央)を仮養子にする意向を示していた。

ところが大衆議がこれに反対する。頼母は小衆議であったため、彼が後継者となるのは自分たちにとって不利な状況に陥ることを意味していたからだ。
大衆議は他の者を仮養子にするよう頼峯に頼み込んだが、頼峯は意向を変えず、頼母を仮養子として届け出た後、帰国したのだった。しかしその後、御扶持医の右田立哲が自殺するという事件が発生。これについて調査が行われたところ遺書が見つかり、そこに頼峯を毒殺して頼母を擁立しようという陰謀があると記されていたのだ。

このことが露見すると、小衆議の者たちは一斉に検挙された。小衆議派の指導者らには切腹、死罪、遠島などの処罰が下され、一門が起請誓詞を提出することでこの件は一段落した。
こうして小衆議が処分されると、そのまま御手判銀も実行に移された。小衆議派に擁立された頼母についても、起請誓詞の提出以外は特に処分を与えられず、引き続き頼峯の後継者となっている。

1758年(宝暦8年)に頼峯は亡くなり、頼央と名を改めた頼母が新たに藩主となった。
しかしそれからわずか1年後、頼央は突然亡くなってしまう。この死の真相に、御手判銀事件から続く大衆議と小衆議の争いが絡んでいたのである。

1759年(宝暦9年)7月、球磨川薩摩瀬の観瀾亭という休息所で頼央が休んでいたところ、いきなり川の向こうの竹やぶから何者かに鉄砲で狙撃され、治療の甲斐もなく亡くなってしまった。この事件については目撃者がおり、大目付に犯人を訴えた。ところが頼央の家老たちは、「銃声は子どもの竹鉄砲(爆竹)が原因」とした上で、子どものしたことで騒ぎ立てるのはみっともないとしてその訴えを棄却してしまったのである。

つまりこれは、小衆議の藩主を暗殺した上に、その事件そのものを隠蔽してしまおうという、大衆議の策略だったのだ。
この事件について書かれた史料なども、ことごとく抹消されているために、詳細なことはわからない。人吉藩では小衆議と大衆議による主導権争いが常に起こっていたために、結局財政は常に逼迫したままであったという。

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