【時期】1667年(寛文7年)
【舞台】加賀藩
【藩主】前田綱紀
【主要人物】長連頼、長元連、前田綱紀、浦野孫右衛門
加賀藩内の独立王国となっていた鹿島半郡
浦野事件は加賀藩主・前田家の家臣である長連頼・元連父子の対立が、主家をも巻き込み勢力を二分する騒動に発展したものである。
加賀藩では五代藩主・前田綱紀の時に、後見人の前田利常によって改作法と呼ばれる農政改革が実施された。この改革は、検地による収益の推定、給人による直接支配の禁止、税率の決定などを含んだもので、家臣と農民を救うために実施された改革として知られている。
しかし鹿島半郡と呼ばれる加賀藩鹿島郡の西南部は、1592年(文禄元年)以来検地が行われていなかった。
この地を統治していたのは長家と呼ばれる一族で、1580年(天正8年)に長連竜と呼ばれる武将がこの地を織田信長から与えられて以来、代々継承されてきた。前田家の家臣となった以降もその体制は変わらず、鹿島半郡は前田家の統治から外れて独自の支配を続けていたのである。
その特殊な体制が招いてしまったのが、浦野事件だった。
検地をきっかけに暴政を追及し、独立領を併合
改作法が行われた時、長家の当主だったのは長連頼である。連頼も家臣として前田家に仕えていたので、当然改作法のことは把握していた。そして、鹿島半郡でもこれを実施し、知行地支配を見直そうと検討したようだ。
鹿島半郡の検地は1665年(寛文5年)から始められた。検地は例年にない厳しさで行われ、年貢や租税を免れるために隠れて耕作されている、隠田と呼ばれる田の告発が、土地の調査と並行して進められた。
これに抵抗を見せたのが、長家の家臣である浦野孫右衛門らだった。
浦野は侍たちと組んで隠田を開墾しており、検地によってこれが明らかになると年貢の対象となってしまう。隠田で私腹を肥やしていた浦野にとって、それは避けたい状況だった。
また浦野だけでなく一般の百姓や十村と呼ばれる大庄屋らも、連頼の厳しい検地には反発を見せていた。そのためこれらの勢力が結びつき、検地の反対運動に乗り出すことになる。その際に反対勢力の中心として擁立されたのが、連頼の子・元連であった。
一方の連頼も、側近の加藤采女が浦野と対立し、村役人らに呼びかけて浦野に対抗する勢力をつくりあげるなどの行動をとった。結果、連頼を筆頭とした改革派と、元連を筆頭としたこれまで通りの統治を目指す保守派による、対立構図が出来上がってしまったのである。
家中が二分されたこの状態に、連頼はもはや自分ひとりでは解決できないと判断し、騒動になるのを覚悟の上で藩に訴え、解決を仰いだ。これを受けた藩主・綱紀は、前田利常の死後に新たな後見人となった会津藩主・保科正之と相談。話し合いを重ねた上で、裁定を下した。
まず事件を扇動した浦野には、その子や娘婿を含めて切腹が命じられた。
保守派の中心として擁立された元連は蟄居を命じられ、保守派に与していた百姓、並びにその子らに対しても死刑が申し渡されている。また改革を推進し事件のきっかけをつくった連頼も無罪放免とはいかず、前田家の家老を罷免となり、さらに家督を子の時連に譲ることとなった。
こうして藩の介入により事件は一件落着したものの、それから4年後の1671年(寛文11年)、連頼が亡くなったのを機に、長家は鹿島半郡を没収されてしまった。これで加賀藩に独立領はなくなり、時連は代わりに同等の知行地を与えられている。
結局のところ、独立性を持つ鹿島半郡を何とか藩の統治下に入れたいと考えていた前田家が、長家で起きた騒動をその口実にしたと言えるのかもしれない。