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【江戸時代のお家騒動】大村藩の御一門払い 藩内の抵抗勢力を一掃する

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【時期】1607年(慶長12年)
【舞台】大村藩
【藩主】大村喜前
【主要人物】大村純頼

バテレン追放令によって財政難に

この「御一門払い」は、1607年(慶長12年)に肥前大村藩で起きた事件だ。読んで字の如く、藩主である大村家が庶家一門(=御一門)の領地を強制的に取り上げて、追放したのである。
大村氏は、藩が成立する以前からこの地の在地領主であった。1587年(天正15年)に行われた豊臣秀吉の九州征伐ののち本領を与えられ、藩が成立する。初代藩主は大村喜前だ。

ところが、それから間もなくして発せられたバテレン追放令と、秀吉によって長崎を没収されたことが、大村氏に大きな壁として立ちはだかった。
長崎は日本最初のキリシタン大名として知られている大村純忠が開いた港だ。大村氏はこの長崎を通じて行われる南蛮貿易によって利益を得ていたのだが、秀吉が長崎付近を公領地化するとなると、貿易を行うことが困難になってしまった。加えて喜前もまたキリシタン大名であったため、この度のバテレン追放令は大村氏を追い詰めることになった。

このような事情により、大村藩は成立時から酷い財政難にあり、藩体制を確立することすらままならなかったのである。これは政権が徳川氏に交代しても同じ状況で、長崎は公領となったままだった。さらに大村氏にとって問題であったのは、庶家一門が本家を脅かすほどの勢力を保持していたことだ。
戦乱の世にあって、大村氏は一門を分封することで支配力と領地を獲得し生き抜いてきたのだが、それによって藩内の領地の四割は庶家一門が所有しているという状況だった。そのため藩の収入源となる直轄領が飛び飛びにしか設定できなかったのだ。しかも大村氏の家臣団構成を見てみると、その上層部は一門が独占しており、藩主が藩主としての確固たる権限を持ち合わせていないということを意味していた。

一門の知行地を没収することで財政問題を解決

このような状況を打開するべく動いたのが、藩主・喜前の子である純頼だった。
純頼は御一門払いを断行して、一門20名のうち、叔父にあたる大村何右衛門と大村善次郎の知行地を半分に減らした。そして他にも13家に対し、知行地をすべて強引に没収したのである。しかも何右衛門と善次郎の家もその後、跡継ぎがいないなどの理由で断絶しているため、実質的には彼らの知行地も没収したということになる。
なお、知行地の没収を免れた残りの5家については、もともと所有している知行地が少なかったために、取るに足らないものと判断されたようだ。

しかし、藩主としての権威が低下している大村氏、しかもまだ部屋住みの純頼がこのように知行地の没収を断行できたことに疑間が湧く。
そのヒントとなるのは、御一門払いの2年前、純頼が喜前とともに徳川家康・秀忠父子に会いに行ったという事実だ。その後、喜前のみが帰藩し、純頼は江戸で2年暮らしている。そして帰ってきた純頼は、すぐに御一門払いを決行したということだ。この流れから、純頼と将軍家の間で何らかのやり取りがあり、その協力があって御一門払いを実行に移すことができたものと思われる。

かくして大村氏は8138石の知行地を手に入れることに成功。これらの没収地は藩の直轄領とされた。そのため、大村藩はこれまでになかった経済基盤を確立し、逼迫した財政を改善していくことができたのだ。
また、これと時を同じくして家臣団の再編成も行われた。一門に代わり、譜代家臣や在地領主が上層部を占めるようになり、家老や城代に任命されている。ほとんどの庶家一門が藩政の中枢から追放される形となり、その結果本家は権力を取り戻すことができたのだった。

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