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【江戸時代のお家騒動】大谷吉継による家臣団継承 越前国5万石の民生安定

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【時期】1589年(天正17年)
【舞台】敦賀領
【藩主】大谷吉継
【主要人物】大谷吉継

「秀吉の家臣」吉継が蜂屋氏家臣団をそのまま引き継ぐ

大谷吉継といえば、石田三成との友情に殉じたという清廉な生き方で人気の高い武将のひとりだ。
刑部少輔に任じられたことから「大谷刑部」という呼び方でも知られている。実は彼も、騒動抜きで大名家を吸収しているのをご存知だろうか。

一般的に、彼は豊後の大友宗麟に仕えていた大谷盛治の子だとされている。
しかし彼の出自には諸説あり、近江国出身とするのが有力だとも言われていて、定かでない。彼が初めて史料に登場するのは、19歳の時である。16歳の頃より羽柴秀吉に仕えていたとされる吉継は、馬廻衆として1577年(天正5年)より彼の中国攻めに従った。播磨国に侵攻し、秀吉が上月城、三木城と攻めていく中で、吉継もその戦いに加わっている。

1583年(天正11年)、織田信長の死後、その後継者をめぐって賤ヶ岳の戦いが勃発。吉継はまたしても羽柴軍として戦いに参加した。この戦いで特に活躍した者たちが「賤ヶ岳七本槍」の名で有名だが、吉継や三成はその中に入っていないものの、それに劣らないほどの活躍をしたと伝えられている。
このように秀吉のもとで戦功を重ねた吉継は、1585年(天正13年)に従五位下刑部少輔に任じられる。こうして吉継は、政権の中心を担う存在となったのだ。

さて、そんな吉継が5万石の城主となったのは、1589年(天正17年)のことである。この年、越前国敦賀城主であった蜂屋頼隆が亡くなった。ところが頼隆には跡継ぎがいなかったため、蜂屋氏はそのまま断絶となった。
その後に敦賀城に入れられたのが吉継だ。敦賀城に入る以前から、秀吉の家臣として知行地を持っていた可能性もある。だがあくまで「秀吉の家臣」という立場に過ぎなかった吉継には、5万石に見合うほどの家臣は恐らくいなかっただろう。
そこで吉継には、改易となった蜂屋氏に仕えていた家臣が、敦賀城とともにそのまま引き継がれることになった。敦賀城主時代の吉継がどのようなことをしていたのか。それを具体的に示す史料はほとんど残っていないというが、吉継が城や城下町、港などの拡張整備を行ったことは明らかとなっている。

とくに港に関しては、敦賀が北国の海運の拠点とされていたことを重視したのだと思われる。この地では船商人たちが多く活躍しており、吉継は彼らに対して諸役を免除するなどの保護をしていたようだ。
また彼に仕えることになった蜂屋氏の家臣たちについても、名前が残っている者は少ない。しかし商人たちに対する恩情を考えると、家臣たちにも同じような態度で接していたのではないだろうか。
1600年(慶長5年)、吉継は関ヶ原の戦いで三成に味方し、西軍として戦い抜いた末に自刃した。敦賀は没収され、三層の天守閣を誇っていた城も一国一城令によって1616年(元和2年)に破却された。今はもう、城跡すら残っていない。

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