斎藤龍興(竜興)は「麒麟がくる」前半の主要キャラクターとして大活躍した斎藤義龍(義竜、作中では高政と呼ばれることが多かった)の息子だ。
彼が大名となったのはわずか15歳のときだった。父の義龍が突然病死してしまったからである。それから数年で斎藤家に従っていた家臣たちが次々と離反し、以前から美濃を伺っていた織田信長も侵攻を開始。龍興は美濃を追われ、戦国大名斎藤家は三代で滅亡となってしまった。
彼は後世様々な物語でその凡庸さを指摘されるが、幼くして一国の大名とならざるを得なかったことも含めて仕方がない部分が多分にある。
大河ドラマの中でも描かれてきた通り、土岐氏に取って変わった斎藤家(一色家)の美濃支配体制は非常に不安定で、配下の国人たちを押さえ込むのに大いに苦労してきた。その結果として起きたのが義龍による父殺しであったわけだが、義龍もまたこの延長線上で国人たちの反発に遭うことになった。
一方であまりにも若すぎる大名を不安視し、従えないと国人たちが考えるのもまた無理からぬことであった。龍興が美濃を追われたのも、まだ21歳の時のことである。
しかし、後世人の視点から考えると龍興の人生はここからなのが面白い。彼はまず伊勢長島へ逃れ、一向一揆に加わった。敵手は美濃に次いで伊勢へ進出しようとしていた織田家だ。以後、龍興は各地を転々としながら生涯をかけて信長と戦い続けることになる。
次に摂津へ逃れた龍興は三好三人衆と手を組んだ。このころの畿内では信長の支援を受けた足利義昭が反将軍勢力と戦っていたのである。やがて龍興は浅井家の元へ移った。浅井長政はじつは親戚関係(龍興の母・近江の方は長政の妹であるとされる)にあったので、その縁を頼ったのであろう。ここからさらに朝倉家に移り、信長と戦い続ける。
朝倉家というと本連載ではどうしても光秀が気になる。
かつての主君の子が朝倉家の客人になったことを光秀がどう思ったかーーはちょっとわからない。資料が残りようもない事柄だというのもあるが、正直あまり感慨はなかったのではという気もする。
なぜなら、光秀と龍興の越前時代はまったくバッティングしていないからだ。ここまで紹介してきた通り、龍興が朝倉義景の庇護下に入ったのは信長包囲網の時期。この頃の光秀はすでに織田家臣(幕府直臣との両属関係ではあったが)であって、とうに越前を離れている。美濃に戻ったときに龍興のことを知って思うところはあったかもしれないが、越前に逃れたことについてはいまさらであったのではないか。
その龍興の信長との戦いは、越前で終わることになる。朝倉家滅亡に先だって戦場で討死したのだ。
それから間もなく信長包囲網は崩壊し、織田家はさらなる躍進を遂げていくこととなる。