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【戦国軍師入門】2.上への忠誠より一族の保護

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榎本秋の戦国軍師入門

戦国時代の一国は専制国家ではなく複数の豪族の寄り合い所帯であり、大名はそうした豪族たちが担いでいるお神輿で象徴のようなものだった。
だから当時、大名に忠誠を尽くすことは必ずしも一番大事なことではなかった。それより、各豪族はその後ろに自らの一族と家臣団を抱えているので、彼らを食わせていくことが一番だったのだ。

そのためには自分の領地を確保し、あわよくばそれを拡大していくことが必要だったから、時にはたやすく味方する大名を変えることもあった。そしてそれは別に悪いことではなかったのだ。かといって、しょっちゅう裏切りばかりしていると当然信用されなくなるのは今も昔もそう変わらないが。

つまり大名は、常に自勢力を形成する豪族たちに、自分に従っているとメリットがあるのだと思わせ続けなければいけなかったのだ。逆に、そうしたメリットがなくなると櫛の歯が欠けるように豪族たちは離反していってしまうのである。

こうした中で大事な行事が跡取りの選定と合戦だった。なんといってもこのふたつが、その大名に従っていてよいのかを示すとてもわかりやすい指標だったからだ。ここではまず、跡取りのことについて触れていこう。

跡取りは基本的には、正室(正妻)の長男に継がせたが、状況によっては必ずしもそうはならなかった。例えば有名な戦国大名の中だと、武田信玄と伊達政宗はともに正室の長男でありながら、次男に家督を奪われそうになった。両者とも家臣団をきちんとまとめあげて自分の勢力を確保したが、こうした御家騒動が起きると、その勢力は一気に力を失う危険性がある。内紛を繰り返す大名はすぐに部下や豪族に見放されてしまうものなのだ。

その顕著な例が伊達家だ。東北地方の名家の中でも着実に勢力を伸ばしていった伊達家は、婚姻と養子政策を繰り広げ、いったんは東北で一番の勢力になる。ところが、家督を巡る争いが二代続けて起きてしまい、ついには本来の領土を守ることすら危ない状況にまで落ちぶれてしまったのだ。そこで、三度繰り返してはいけないと政宗の父輝宗は早々に隠居し、政宗に家督を譲ったのだった。もし、この時にまたもや争いがあれば、後の江戸時代を代表する大藩・仙台藩はなかったかもしれない。

また、正室の長男だからいいというわけでもなく、そこにはある程度の手腕を要求された。一代で国を盗ったといわれる斎藤道三は隠居後にその子の義龍によって討たれたが、義龍が優れた手腕を示したために、それによって斎藤家の権勢が揺らぐことはなかった。しかし、その後を子の龍興が継ぐと、彼が悪政を行ったために有力な豪族は一気に離反したのだ。

他方、当主が凡庸でも補佐役がきちんとついていると勢力は揺らがない。その良い例が毛利氏だ。
一代で中国地方に大勢力を築いた毛利元就の後を継いだのは、それほど優秀とは周囲から思われていない、凡庸な孫の輝元だった。しかし、他家に養子に行って「毛利の両川」と謳われた吉川、小早川のふたりの叔父が強力にサポートしたため、その巨大な勢力を失わずにすんだのだ。毛利家が勢力を大幅に減らしたのは、叔父2人が世を去った後のことだった。

課題は権力基盤の確立

豪族たちをまとめた寄り合い所帯である武士勢力のトップ、戦国大名とはどういうポジションだったのだろうか?
基本的には、戦国大名というのはそういう豪族たちのリーダーということになる。戦国大名自体も支配地を持ち、さらにリーダーとして豪族たちをまとめつつ、その勢力自体を運営していくという形になる。
ここで気をつけるべきことは、大名たちの多くが絶対的な権力や発言力を持つ支配者ではなく、その勢力の中で比較的力が強いまとめ役に過ぎなかった、ということだ。

戦国時代の序盤、元々この地位にいたのが、守護といわれる各国の支配権をゆだねられていた名門武士だった。彼らは中央(幕府)に任命された守護という地位の権威で、豪族たちを支配したのだった。
しかし、彼らの大多数は乱世の色が濃くなるにつれて、部下に取って代わられるなどで支配力を失っていく。これが下克上といわれるものだ。

この時代、守護代として守護の代わりに勢力を培っていたものが守護に成り代わるか、地元の豪族が勢力を増してやがて守護に取って代わるというのが、戦国大名に成り上がる二大パターンだった。
前者の例だと、織田氏、朝倉氏、上杉(長尾)氏など、後者の例だと徳川氏、毛利氏、浅井氏、長宗我部氏などを挙げることができる。

下克上の戦国の世といっても、一から勢力を作ることは難しかったようで、そうした意味で一から関東に勢力を植え付けた北条氏というのは稀有な例だといえる。逆に古い時代からの守護で江戸時代まで勢力を保てたのは、南九州の島津氏や伊達を始めとする東北の諸大名ぐらいのものだった。

しかし、こうしたリーダー的な立ち位置のままでは、どうしても支配力に不安が残る。そこで多くの戦国大名たちは自分の権力基盤を確立させていき、絶対的な権力者になろうと試みていった。のちに述べるように人質を取ったり、もしくは有力な豪族に自分の妹や娘を嫁がせたりして関係を深めていき、何かメリットがあるから従っている寄り合い所帯ではなく、自分の命令に忠実に従う軍団を作り上げていく。

こうした試みに成功した戦国大名たちこそが、その地方を代表するような有力な大名へと成長していくのだ。有名どころでは江戸幕府を成立させた徳川家康の試みがわかりやすい。家康は元々松平氏という豪族の当主なのだが、この一族には十八松平と呼ばれるほどに多くの分家があり、その中で内紛が絶えなかった。家康の祖父と父がそれぞれこの内紛の結果、家臣によって暗殺されているほどだ。

そこで家康は松平の源流にある(信憑性は低く、家康が口実に使っただけとされている)徳川の名字を名乗り、他の親族との差別化を図った。同格の松平のまとめ役ではなく、徳川という一段高い身分のものである、と示したわけだ。
しかし、一度そうして権力を確立させても、代が変わる中でこの構造が崩壊してしまうこともある。例えば関東の雄・北条家などは、北条早雲という稀代の名将によって一代で確立されたが、その子孫たちはそれを維持し続けることができず、豊臣秀吉によって滅ぼされてしまった。

 

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