お城の御殿は藩の政治を行い城主が生活する場所でした。
そのため多くの建物で構成されていました。
今回は御殿は何で構成されているのかについて見てみようと思います。
近世城郭の御殿
慶長期(けいちょうき=1596~1615年)以降の近世城郭(きんせいじょうかく)では御殿(ごてん)が多く建てられました。
中世城郭(ちゅうせいじょうかく)では山城が多かったため、御殿を建てるだけの広い土地が確保できず、御殿はあまり建てられませんでした。
近世城郭の御殿は城主の住居であり、かつ、家臣との対面や政治を行う場所でもありました。
つまり城の中でも最も重要な部分が御殿だと言えます。
御殿を構成するもの
御殿は大小様々な殿舎(でんしゃ)によって構成されていました。殿舎とは館(やかた)のことです。
その数は中小の大名でも10から数10棟、大大名になると100棟以上になりました。
それぞれの殿舎は廊下でつながれて一体となっていました。
御殿は本来、本丸に建てるのが望ましいとされていました。
しかし、慶長期(1596~1615年)以前の城では、本丸には御殿を建てられるほど広くはなかったため、二の丸や三の丸に御殿を置く城が多かったのです。
御殿の「表」と「奥」
御殿には大きく分けて表と奥の二つの部分があります。
表は城主の政治的な公邸です。
表御殿、中奥、役所、台所などからなっていました。
奥は城主の休息の場であり、表の役人は基本的に出入りが禁止されていました。
基本的には奥は御殿女中が仕切っていました。
なじみのあるもので言えば大奥ですが、これは江戸城と名古屋城の奥だけが大奥と呼ばれていました。
まとめ
近世城郭では御殿が多く建てられ、政治を行う場所でもあり城主の住居でもありました。
御殿には表と奥がありそれぞれ役割が異なりました。
犬山城にも松の丸御殿、西御殿、三光寺御殿の三つの御殿が存在していました。
ということで、お城の御殿は何で構成されているのかというお話でした。
じゃあね🖐️
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