「麒麟がくる」前半の時期に日本の他の地域では何が起きていたか……を探る本シリーズも今回で最終回。
今回は戦国時代にはまだ「日本」の一部と見なされていなかった地域、琉球と蝦夷地を見ていく。どちらの地域も直接的に戦国騒乱に巻き込まれてはいないが、間接的には影響が出ている。
琉球王国の最盛期を築いた尚真王の子と孫が王位に
中世、現在「沖縄」と呼ばれる島と周辺地域には琉球王国が存在した。
東アジア〜東南アジア貿易の中継地点として繁栄した国際貿易港だ。日本なら堺・博多、そして中国、朝鮮、シャム、ベトナム、マラッカ、スマトラ、ジャワなどの品々が琉球に集まったのである。
最初は第一尚氏と呼ばれる一族の支配する王国が立ったがやがて滅び、第二尚氏が新たな琉球王国を作り上げている。特に三代目、尚真王の時には権力を中央に集めることに成功し、大いに繁栄したという。
尚真の時代の大きな特徴としてはもうひとつ、たんに琉球の本島を強く支配しただけにとどまらず、奄美大島や宮古島、八重山列島といった、現在私たちが沖縄として知る地域を広く支配下に置いたことがある。1477年に即位して1527年に退位した彼の時代に、「琉球(沖縄)」という地域の確立が進んだのだ。
「麒麟が来る」前半の物語が展開していた時期の琉球は、4代・尚清(在位1527〜1555)と5代・尚元(1555〜1572)の治世下にあった。この頃の琉球王国にとって大きな問題だったのは奄美大島で度々あった反乱で、尚清も尚元もこの対応に奔走している。
また、薩摩の島津氏との関係も重要な課題だった。
室町幕府から琉球の船の警護を任せられていた島津は、のちに日本と琉球の船の行き来そのものを管理するようになり、やがて琉球そのものにプレッシャーをかけるようになる。
尚元の頃には友好的に接していたが、16世紀の終わりには威圧、そして武力行使へ急激に傾いていく……。
蝦夷地にはのちに松前氏を名乗る蠣崎氏が台頭する
一方、現在の「北海道」である蝦夷地はどうだったか。
この地には古来からアイヌと呼ばれる独自の文化と歴史を持つ先住民族が居住していた。アイヌ民族自体は北海道だけでなく、南サハリンやクリル列島にも住んでいたが、その文化や言語には少なからず違いがあったとされる。
中世になると蝦夷地の南部には和人、すなわち本州の人々も進出していて、15世紀には館主と呼ばれる豪族たちが出現していた。彼らはアイヌと和人の交易ルートの要所である河の入口に拠点を築く。
その支配はアイヌたちの反発を招き、15世紀中頃になってシャクシャインの蜂起が発生。以後長く戦乱の時代が蝦夷地にも到来した。
その中で頭角を現したのが蠣崎氏という館主のひとつだ。
彼らは和人の代表格としてその勢力を伸ばし、蝦夷地南部を統一することに成功した。「麒麟が来る」の物語が始まった頃は蠣崎季広の時代で、彼は1549〜1551の時期にアイヌとの関係を転換。アイヌ有力者との間に和睦を結び、蝦夷地と本州の交易を安定化させてさらなる発展を図った。
琉球にせよ、蝦夷地にせよ、「麒麟がくる」の時代(おそらく本編終了までも含めて)には枠組みを固める流れはあっても、大きな変化は起きない。
戦国時代の騒乱の中でこの地域にまで手を及ぼす余裕はどこの大名にもなかったのだろう。
激動が巻き起こるのはその後だ。琉球は島津に征服されるし、蝦夷は蠣崎氏から松前氏と名前を変えた大名の支配下に置かれる。そしてともに苦難の江戸時代を迎えることになる……。