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けっきょく江戸時代に藩はいくつあったのか

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江戸時代にあった藩の一覧をつくろうと決めたものの、ネットを探してもそれらしい一覧はありませんでした。
Wikipediaには「藩の一覧」というページがあって、「江戸時代から明治時代の初期に日本の各地に存在した藩を地域ごとに一覧する。」と書いてあるのですが、じっさいには「七尾藩」のように豊臣政権期にのみ存在し、江戸時代には存在しなかった藩も含まれていて、そのまま信用することはできません。

藩の一覧 - Wikipedia

ネットにかぎらず、書籍やムックでも「江戸300藩」と題して、一覧が掲載されているのはあるのですが、これらが取り上げているのは「幕末に存在した藩(約270藩)」が中心のようで、江戸時代の途中で廃藩になってしまった藩は収録されていません。
ちなみにうちには藩についての資料がこのくらいあります。

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このうち手前に置いた分厚くて高い本には「全国五百四十余藩の藩史を集大成!」(『藩史事典』秋田書店)や「江戸時代に立藩された546藩を完全網羅!!」(『藩と城下町の事典』東京堂出版)と帯に書いてあり、これを書き出せば藩の一覧をつくれるんじゃないかと思うのですが、ことはそう単純ではありませんでした。
さすがに七尾藩はどちらの本にも掲載されていませんが、阿保藩(あぼはん)が両書ともに掲載されています。

阿保藩は関東に同行した菅沼定盈が上野阿保に1万石の所領を与えられたことにはじまるのですが、定盈は慶長年間初期に息子の定仍に家督を譲って隠居、その定仍は「関ヶ原の戦い」の功により伊勢長島藩に加増移封となり、阿保藩は1601年(慶長6年)6月に廃藩となっています。
つまり『藩と城下町の事典』の帯にある「546藩」が答えではなく、正解な数はまだわかっていません(さらに付け加えるとこの本に掲載された藩を書き出したものの546に足りてなくて余計に混乱しました)。

そこで今回は『藩史事典』と『藩と城下町の事典』、それとWikiprdiaの一覧を比較しながら、まず確実に「江戸時代に存在した」といえる約500藩を登録し、あとから地道に漏れた藩を補足していくことにしました。
大名家の藩主就任の歴史を追っていけば最終的には正しい結果が得られるのではないかと思っています。

そもそも藩の定義がややこしい

なぜ正確な一覧表がどこにも存在しないのかというと、そもそも藩の定義がややこしいという問題があります。
基本的な定義は「1万石以上の石高を有する大名の領地」のことを「藩」と呼ぶのですが、前回書いたように江戸時代には藩という言葉が使われていなかったこともあり、当時の資料に「藩の一覧」は存在しません。

ただし『大名武鑑』という大名家の一覧が収録された江戸時代の本を精査することで、その時点の大名家を知ることはできます。「○○藩」とは書かれていませんが、大名ごとに石高と居城は記載されているので一致はさせられそうです。

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codh.rois.ac.jp

余談ですけど、この『大名武鑑』は江戸時代のベストセラーだったそうです。
なぜなら参勤交代制がはじまり江戸に諸大名が集まるようになってしまったので、どの大名家かを識別するために彼らと取引を行う商人や大名行列を見物する町人が買い求めたんだとか。現代のタレント名鑑とか野球選手名鑑みたいな感じで、ちょっとおもしろいですね。

ほかにも以下のようなポイントがあります。

いつからいつまでを対象とするか

江戸時代に存在した藩、といってもその江戸時代の始まりと終わりが曖昧なのも問題です。
一般的には徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸に幕府を樹立した1603年(慶長8年)から、明治に改元された1868年(慶応4年/明治元年)までの265年間を指します。
でも「関ヶ原の戦い」が起きた1600年(慶長5年)や豊臣氏が滅亡する1615年(元和元年)を始まりとする説もあるそうです。終わりの時期についても大政奉還を明治天皇に上奏した1867年(慶応3年)や廃藩置県が断行された1871年(明治4年)などいくつかのそれっぽいタイミングがあります。

先の阿保藩(1601年に廃藩)の場合、江戸幕府樹立をスタートにすると対象外ですが、「関ヶ原の戦い」までスタートをずらせば対象に含まれます。
また明治時代に入ってから成立した藩もいくつかあって、たとえば白石藩などは明治元年に立藩しています。

さらに犬山藩や新宮藩など御三家の附家老は大きな領地を与えられていたものの大名の扱いを受けてなかったのですが、大政奉還後の1868年(慶応4年)にようやく認められて藩となったので、藩として数えないケースもあるそうです。なおこうした大政奉還以降に成立した藩のことを「維新立藩(維新後立藩)」と呼ぶそうです。琉球藩も立藩したのは1872年(明治5年)のことでした。

学者間で結論が出てないことをぼくが考えても時間の無駄なので、今回は江戸幕府樹立(=1603年)から、廃藩置県(=1871年)までを対象とすることにしました。
データとしては立藩年(成立年)と廃藩年をそれぞれ保持しているので、あとから期間を変更しても最小限の修正で対応できると思います。

その藩はいつできたのか

藩の成立をいつにするかも厄介な問題です。
前田家や島津家のように豊臣政権下での大名を「豊臣大名」と呼びますが、彼らは「関ヶ原の戦い」前後で国替えがありませんでした。この場合は江戸幕府から存続を許された時点(所領安堵の朱印状=領知朱印状が発給)で江戸時代における藩となるわけですが、それはだいたい「関ヶ原の戦い」翌年の1601年(慶長6年)頃のようです。

このケースよりもさらに厄介なのが、いわゆる譜代大名と呼ばれる家康の家臣団の扱いです。
彼らは家康自身が豊臣大名として関東入封した1590年(天正18年)の時点で、関東地方の各地に所領を与えられており、これも「○○藩」と便宜上呼ばれています。井伊直政が高崎藩、本多忠勝が大多喜藩といった具合ですね。

井伊家や本多家は江戸時代に入って彦根藩(正確には佐和山藩)や桑名藩に加増移封されますが、そのまま引きつづき同じ領地を藩主として支配した場合もあります。この場合、藩の成立は1590年(天正18年)なのか、あるいは江戸に入ってからちゃんと朱印状が発給されて記録として残っているのかがわかりません。
今後ちゃんと調べていけばわかるのかもしれませんが、とりあえずこのケースでは1590年(天正18年)を立藩年として入れています。

藩庁の有無

加賀藩なら金沢城といった感じで、藩には藩庁が存在します。小藩であっても陣屋と呼ばれる城の代わりにとなる屋敷がありました。大名になるには1万石以上が必要ですが、さらに城を築くためには3万石がボーダーラインになっていたそうです。
では藩には必ず城か陣屋があったのかというと、そうともかぎりません。藩内支藩といって子どもや兄弟に数字上のみ分与しているケースがあるからです。こうした藩内支藩は蔵米支給といって俸禄をもらうだけで領地を有しているわけではないので、当然のように藩庁も存在しません。

たとえば千姫が再婚した本多忠刻には幕府から化粧料として10万石が与えられますが、まだ家督を相続していない部屋住みの身分でもあり、姫路城で暮らしていました。よって姫路新田藩には藩庁がありません。
もちろん大半の藩には城なり陣屋なりといった藩庁が存在しているので、データベース化する際にも入力欄は用意しているのですが、必須項目ではないという点は注意が必要です。

勉強しながら段階的に整備します

とまあこのように「藩の一覧をつくるぞ」と気楽にはじめてみたものの、調べていくといろいろとグレーゾーンも多く、ネットにも書籍にもぼくが求めているリストがなかったことにもうなづけます。
調べ物をしていると「ネットに存在しない情報」というのがちょくちょくありますが、まさか江戸時代に存在した藩の数がわからないというのは意外でした。ただ、どこにもないならつくればいいわけで、やりがいも感じています。

書籍をつくるのとちがい、日々更新していけることが攻城団のようなインターネットサイトの利点ですので、これから少しずつ教わりながら埋めていきたいと思います。仮に完成しなくても、そこそこいいところまで網羅できれば、誰かが引き継いでくれるでしょう。

おもしろくて有意義なプロジェクトだと思いますし、手伝っていただける方も随時募集しております。データベースを入力していきたい、大名家や藩の紹介文を書きたいという方はぜひご連絡ください!

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