攻城団ブログ

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4.出世と譜代大名

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譜代大名が就く役職

江戸幕府という巨大なお役所機構は、基本的に譜代大名と直参(旗本・御家人)らによって構成されていた。彼らは現代でいうところの公務員だったわけだ。
その中でも譜代大名は「キャリア公務員」的存在であり、彼らが就く役職は幕閣の中でも高位の要職に限られていた。これらを一般に「大名役」という。それ以外は直参が任命され、将軍を頂点としてその下に譜代大名らが並ぶ、巨大な「江戸幕府ピラミッド」の中段から下段までを構成した。

大老(たいろう)

幕閣の最高位。ただし、常設の役職ではなく、特別な存在であった。幕末、黒船来航の時期に就任して強権を振るった井伊直弼がよく知られている。
最初に大老となったのは1638年(寛永15年)の酒井忠勝と土井利勝。それより前に井伊直孝が3代将軍・家光の側近として幕政に携わり、老中よりも高い地位にあった(たとえば奏書〔将軍の命令を伝える文書〕への押印で、直孝の判が他の老中よりも上段に押されていた、など)が、当時は大老という役職名がなかったため、直孝は大老には数えられていない。
老中以上の権限を持ってはいたが、それを実際に振るったのは酒井忠清と井伊直弼くらいで、それ以外は名誉職的な扱いとされていた。
なお、大老はほとんどの場合、酒井家井伊家から選任されている。

老中(ろうじゅう)

平時における幕閣の最高位。朝廷に関することがらや外交、幕府の財政、大名や直参の知行割り(領地の配分のこと)、大規模な普請などを担当し、さらに大名からの届け出も扱う最重要職だった。
定員は4~5人ほどで、月番制で幕政を担当していた。小事は月番が1人でかたづけ、重要な条件になると合議で決定された。基本的に、老中の指示は将軍の指示として受け止められていたので、幕府の権威を象徴する役職でもあった。
この職は譜代大名がたどり着く実質的な最高位であるため、詳しくは後述する。

若年寄(わかどしより)

老中に続く幕府の重要職。主に大名に関するものごとを担当する老中に対し、若年寄は旗本・御家人ら直参に関することを扱った。直参への命令伝達や訴訟関係は、若年寄が担当することになっている。また、幕府お抱えの職人や医師の監督、建物の修繕などの小規模な普請、日常的な進物の管理、京都や大坂、駿府などに出向く役人の統制といった日常的で細かい雑務を片づけるのも若年寄の役目だった。
若年寄は3代将軍・家光が、堀田正盛、松平信綱、阿部忠秋、太田資宗、阿部重次、三浦正次の6人に、合議によって幕政に参加するよう命じたことからできた役職だとされている。
この6人は六人衆と呼ばれ、家光の側近だった。家光は老中に準ずる立場に自分の側近を置いておこうと考えたようだ。その後、若年寄が役職としてつくられ、2名から6名ほどが任命されて幕政に携わった。
若年寄に任命された譜代大名の平均年齢は、老中のそれより若いという。若年寄を退職した後、老中に任じられた者は多く、譜代大名の出世の階段として大きく作用したと考えられている。

側用人(そばようにん)

5代将軍・綱吉のときに新設された役職。
将軍と老中の間を取り次ぐ連絡役(文字通り将軍の「側」にいた)で、老中と同格の待遇を与えられた。特に1684年(貞享元年)、大老・堀田正俊が江戸城内で若年寄・稲葉正休に殺害され、安全のために将軍の部屋と老中たちの部屋とが離されたため、側用人の存在が重要になった。
将軍のすぐ近くに控えるため、側用人には将軍の寵愛を受けた人物が登用されることが多い。綱吉の時代の柳沢吉保、6代将軍・家宣と7代将軍・家継の時代の間部詮房、9代将軍・家重の時代の大岡忠光、10代将軍・家治の時代の田沼意次などが有名だ。
彼らは将軍の威光を背に、絶大な権力を誇った。実際の政治を行なう老中たちに将軍の言葉を伝える役割だけに、側用人たちはやろうと思えば「これは将軍のお言葉である」としてあらゆる問題に首を突っ込み、思うがままに政治を操れたであろうから、その力が大きいのは当然だったわけである。
反面、側用人の台頭を抑えるため、8代将軍・吉宗の代には廃止され(のちに復活する)、御側御用取次が代わりに置かれた。役目はほぼ同じである。側用人には譜代大名が任命されていたが、御側御用取次は旗本が務めるものとしたため、多少格は下がっている。
もっとも、将軍と老中の間を取り次ぐという役割は変わらなかったので、御側御用取次も大きな権力を持ち、ときには老中も頭が上がらなかったという。
側用人は常駐の役日ではなく、必要に応じておかれた。また、大名の家の中で、当主と家臣の間をつなぐ役目も、同じく側用人と呼ばれている。

京都所司代(きょうとしょしだい)

朝廷や西国大名を監視すべく京都に置かれた役職。江戸幕府はあくまでも朝廷から政権を委譲されている立場だったため、朝廷のある京都は要所中の要所である。所司代役は、急所である都と江戸から遠く離れた西国を牽制する意もあって、重職だった。原則として譜代大名から1人が選任され、1万石が俸禄として与えられる。
また、京都町奉行や禁裏附(禁裏〔宮中・内裏〕に参内して庶務を執り行なう役職)をはじめ、京都の役人を統括する立場にもあった。初代は奥平信昌。

大坂城代(おおさかじょうだい)

大坂城を守り、西国の大名の動静を監視する役職。豊臣家滅亡後、大坂が幕府の直轄地となって伏見城代の内藤信正が転任されたのが始まりとされる。2万石から15万石の石高の譜代大名まで選任され、1万石が俸禄として与えられた。また、赴任の際に従四位下の官位も授けられた。
大坂は畿内の軍事的中心であり、大坂城代の責任は重い。任期は1年ないし3年の交代制の時期もあったようだが、結局はまちまちで、のべ70人ほどが任命されている。

大坂定番(おおさかじょうばん)

大坂城代の補佐役。1623年(元和9年)に高木正次が二丸京橋口、稲垣重綱が玉造口に任命されたのが始まり。大坂金奉行、具足奉行、弓矢奉行、鉄炮奉行、破損並材木奉行らを従え、大坂での実務を取り仕切った。

寺社奉行

全国の神社・寺院を統括した役職。奏者番(後述)の中から選ばれ、2つの役職を兼ねるしきたりとなっていた。
その役割は多岐にわたる。神社や寺院そのものの統制の他、寺社領の領民統治についてもかかわり、さらに将軍家の霊廟や墓所を管理し、連歌師や楽人、陰陽師、古筆見(古筆の鑑定人)、棋士などの文化人を監督するのも寺社奉行の務めだった。
成り立ちは2代将軍・秀忠の頃に板倉勝重と金地院崇伝が寺社の管理を命じられたことに始まる。その後、1635年(寛永12年)に制度化され、安藤重長、堀利重、松平勝隆が最初に任命された。4名ほどを定員とし、月番制で幕政を担っている。
なお、執務は寺社奉行になった譜代大名の江戸屋敷を流用する形で行なわれたため、寺社奉行所という場所はない。
8代将軍・吉宗の頃には、大岡忠相が長年の功績を評価され、旗本でありながら特例として寺社奉行に任命されている。

奏者番(そうじゃばん)

江戸城内における武家の関連儀礼を執行するための役職。20~30名という大所帯で、先述の通りこの中から4人が寺社奉行を兼ねていた。
奏者番の一番の役目は、大名や旗本が将軍に謁見するときにある。ここで大名たちの官位や名前を読み上げ、さらに献上される太刀を披露し、将軍から下される品々を届けるのが奏者番だった。年始や各時季の節句、病気の見舞いなどさまざまな場面で、その職責を果たしていた。
また、奏者番は大名・旗本の子息に江戸城での礼儀作法を教える役目も担っていた。こうしたことから、奏者番は武家の礼儀作法に通じた上、大名・旗本の内情を把握しており、さらに幕府内の人間関係にも敏感という頭脳明晰な人物が求められた。大名の名前を言い間違えたり、途中で口ごもったりしたら、すぐにも罰せられたのだ。
奏者番は譜代大名の出世の開始地点ともいうべき地位にある。この役目をこなせないようでは、幕府の要職に就くのは土台、無理な話だった。

幕末の新たな大名役

幕府の体制と役職は3代家光の頃までに大まかな形が出来上がり、以後はいくつかの変更はありつつ大幅な刷新はなかった。しかし幕末になって幕藩体制が大いに動揺すると、新しい時代にあわせて新たな役職が設置された。

政事総裁職(せいじそうさいしょく)

幕末期、西洋列強諸国への弱腰と将軍後継者をめぐる混乱の中で権威を失い、諸大名をまとめされなくなった幕府は、代わって権威を復活しつつあった朝廷と天皇の力を借りようとした。これがいわゆる公武合体政策である(公は朝廷、武は幕府)。
この公武合体を進めるよう勅命が下ったことで新設された役職が政事総裁職だ(譜代ではなく親藩大名がついた役職ではあるが、老中や大老と深い関係があるので、ここであわせて紹介する)。家門である松平慶永(春嶽の名で知られる)が任命された。当初は慶永を大老とする方針だったが、家門の大名を大老に任命するのは格下げに当たるため、政事総裁職という名称がつけられた。
慶永は攘夷運動の機運の高まりと周囲からの圧迫に耐えかね、職を辞して無断帰国している。間を空けて前橋藩初代藩主の松平直克が任命された。

海軍総裁/陸軍総裁/国内事務総裁/会計総裁/外国事務総裁

幕末期、15代将軍・慶喜の幕政改革によって老中の月番制が廃され、代わってそれぞれの役目に各老中が専念できるよう新設された役職群。
ただし、海軍総裁と陸軍総裁はこの改革以前に一度設置され、蜂須賀斉裕(11代・徳川家斉の二十二男)が陸海両軍の総裁を兼務していたのだが、まもなく老中の役目に戻った、という複雑な経緯があった。動乱の時代にありがちな制度の混乱であり、このように制度運営の点においても一貫できなかった幕府の末路はこの点からも当然だったといえる。
実際、慶喜の改革からまもなく大政奉還で幕府は名目上消滅。しかし、実質的にはその後も幕府は存続し、勝海舟が陸軍総裁に就任している。彼は江戸に新政府軍が迫る中、薩摩藩の西郷隆盛と交渉して江戸無血開城を達成したことで有名だ。
その後、陸軍総裁をはじめとする役職は役目を終え、姿を消したのである。

京都守護職(きょうとしゅごしょく)

1860年(万延元年)、対立する派閥および尊王攘夷運動(朝廷を旗印に、諸外国を排除しようという動き)を弾圧していた大老・井伊直弼が「桜田門外の変」によって暗殺された。これ以後、尊王攘夷過激派が京都を中心に活動を活発化させ、畿内全域は急激に治安が悪化する。彼らに対し、畿内を守護するために置かれた役職が京都守護職だ。京都所司代よりも上位に当たる。
京都守護職を務めたのは、会津藩主の松平容保と、途中でわずかな間だけ彼に代わった松平慶永の2人だけである。ほとんどの期間は、容保がこの役職に就いていた。
京都の治安維持を目指した容保だったが、攘夷運動があまりに活発であり、当初の宥和路線から強硬路線へと転じ、攘夷志士を徹底的に弾圧した。彼の配下として活躍した武装集団・新選組の名前は、今も広く知られている。
容保は長州征伐にも積極的な姿勢を示し、後に新政府軍から朝敵としてその名を挙げられることになる。
大政奉還後も京都守護職は、慶喜が将軍職を返上しなかったために残された。しかし、「王政復古の大号令」を受けて将軍職は廃絶され、京都守護職も消滅する。

学問所奉行(がくもんじょぶぎょう)

昌平坂学問所(幕臣の子弟が学んだ幕府直轄の学問所。湯島聖堂とも)の監督のために新設された役職。

老中を目指す出世レース――「外回り」コースと「中央」コース

井伊家や酒井家、榊原家、本多家などの「宿老」大名は、もともと幕閣にはあまり参加しなかったり、あるいは大老職になれる可能性があった。しかし、彼らを除いたほとんどの譜代大名にとっては、老中こそが出世の頂点となる役職だったのである。
ゆえに、譜代大名たちは立身出世し、なんとか老中になろうと奮闘する。その出世コースは大きく分けて「中央」コースと、「外回り」コースの2つがあった。

まずは奏者番から京都所司代や大坂城代を経由して老中に至るケースだ。一度江戸の「外」へ出るため、ここでは仮に「外回り」コースと呼ぶことにする。現代風にいうならば、本社重役になる前に一度支社長や関係グループ会社の社長を経験するようなものだろうか。
京都所司代や大坂城代は前述のように「西国の取りまとめ」的立場であり、その役目の範囲は広いため、幕政を切り盛りする老中としての識見を学ぶためには最適だった、ということなのだろう。

このコースをたどった代表的人物として、5代将軍・綱吉の時代に京都所司代から老中となった戸田忠昌を紹介したい。彼は三河国田原藩1万石を治める小大名だった。そこから奏者番と寺社奉行を兼任し、さらに京都所司代に進み、最終的に老中となったのだ。このとき、石高は加増に加増を重ね、7万1千石にまで膨れ上がっていた。
こうした絵に描いたような立身出世が成り立った背景には、将軍家の傍流出身であったために名門譜代を側近に持たない綱吉が、子飼いの部下である忠昌を要職に就けようとしたことがあったとされる。

一方、江戸に残り続けて老中になる大名もいた。これが奏者番から若年寄や側用人を経由して老中に至る「中央」コースである。こちらも現代風にたとえてみると、社外に出ることなく係長や課長、部長などを経て重職にまで成り上がった、本社生粋のエリート、というところだろうか。
彼らは江戸に居続けて幕政に深くかかわるわけで、トップに立つ将軍や、参勤交代で江戸にやってくる諸大名、行政を実際に行なう旗本たちとの関係も自然と深まっていくことになった。そうした「コネクションづくり」こそが、「中央」コース最大の特徴ではなかったか、と推測される。
「中央」コースの例は、すでに綱吉の時代から見られるのだが、その数を増やすのはしばらく後になってからのことだ。これは、幕藩体制が安定度を増し、諸大名ににらみを利かすよりも内部に目を向けるほうが老中として重要になった、ということなのかもしれない。

時代によって変わる出世コース

老中になる道は「外回り」コースと「中央」コースに限るわけではない。時代によって、出世コースはさまざまに変化していく。
また、各々の時代には老中や、それに準ずる役職で幕政を担った代表的な幕閣がいた。本項では各時代ごとの事情を紹介する。

駿府政権時代

江戸幕府が開かれた直後、初代将軍・家康は早々に秀忠に将軍職をゆずり、駿府に隠居した。しかし、実権はまだ家康が握っており、大御所として駿府から幕府を動かしていた。これが「駿府政権」と呼ばれるものである。
この頃、家康の側近として幕府を支えたのは、本多正信と大久保忠隣だ。2人は「年寄」という役職で幕政にかかわっていたが、まだ老中という呼称がなかっただけで、実質的にはのちの老中と変わらない立場にあった。
この時期は戦国時代から関ヶ原の戦いに至るまで、家康と苦楽を共にして数々の戦功を立てた腹心が重用されていた。また、幕府の制度も調整されていく段階であり、他の譜代大名が割り込むような隙間はなかった。

2代将軍・秀忠の時代

家康の死後、2代将軍・秀忠は酒井忠世、本多正純、安藤重信、土井利勝の4名を幕政の中心に据えた。幕府の指示はこの4名の連署によって出されるようになる。のちの老中制と同じ形であり、いまだ老中の呼称はないものの、幕政を動かす基本的な制度は秀忠の頃に定まっていた。
この頃もまだ、徳川家に古くから仕える宿老の譜代大名たちが取り立てられ、それ以外の大名が立身出世することは難しい状況が続いていた。

3代将軍・家光~4代将軍・家綱の時代

3代将軍・家光は先述したとおり6人の側近を取り立て、「六人衆」として幕政を担わせた。これが若年寄の発祥となったとされている。
その後、六人衆は入れ替わりなどがあって、やがて消滅する。若い世代が新たに選任されて幕政を担うようになり、重鎮の「年寄」と区別するために「年寄衆」、すなわち「老中」との呼び名が定着した。
前述の通り、家光や4代将軍・家綱の時代にはまだ将軍に近い位置にある側近が権力を握り、老中の座もほぼ独占していた。
ただ、家綱は将軍となったとき、まだ幼くて側近も成長していなかった。このため、家綱が成人するまでは大老・酒井忠勝や老中・松平信綱といった家光の側近たちが重きをなしており、幕政には家光の時代の空気が色濃く残っていたようである。保科正之(家光の異母弟に当たる)が後見人を務めたのも、その一環といっていいだろう。
また、家綱の時代に活躍した人物としては、ほかにも酒井忠清がいる。この人は「下馬将軍」と呼ばれるほどに権力を独占し、大いにおごったという(「下馬」は屋敷が大手門下馬札の前にあったことから)。
この時期の出世コースの代表は近習・小姓・小納戸といった将軍の側に仕える雑用係的な仕事からそのリーダーである小姓組番頭へ、そして老中へという流れであり、つまり幼い頃から将軍の側に付き従い、側近として縁をつくっていくわけだ。後の中央コースと似ているがやや異なり、いうならば旧「中央コース」というべき存在だったのである。

5代将軍・綱吉の時代

ここで傍流である綱吉が将軍となったことで、もともとの将軍側近ばかりが取り立てられることはなくなった。家綱時代に政治を主導した大老・酒井忠清が退けられ、新たな大老として堀田正俊が引きたてられたのが、その証拠といってよいだろう。
老中や大老に代わる新たな将軍側近として側用人が設置されたのもこの時期で、ここから頭角を現わしたのが柳沢吉保である。また、のちに若年寄から側用人になるという出世の形もつくられている(江戸時代全体を通じて、側用人の約3分の1が若年寄出身である)。
さらに先述した戸田忠昌が京都所司代から老中になったのもこの時期で、「外回り」出世コースが確立したのは彼以降とされる。

6代将軍・家宣~8代将軍・吉宗の時代

譜代大名の出世は「外回り」コースが基本となるが、若年寄から老中に出世する「中央」コースの例も見られた。
綱吉時代に権勢を振るった柳沢吉保は将軍代替わりとともに失脚、代わって間部詮房や新井白石といった人々が側用人・老中として大きな力を持った。ところが、8代将軍・吉宗は白石らを政治から退け、側用人の役職も廃止。そこから老中に任命される者が出てきて、権力を独占することがないようにしている。
これは側用人政治の時代に幕政から遠ざけられていた譜代大名たちが政治の場に戻ってくることを意味していたが、一方で吉宗は自らの側近に御側御用取次という形で側用人と同じ役目を与えており、なかなかにしたたかな統治者であったといえる。

10代将軍・家治~11代将軍・家斉の時代

側用人が復活し、家治の時代には田沼意次が老中になる。その後、家斉の時代には寛政の改革で知られる松平定信が老中に就任した。ちなみに定信は譜代大名の家に養子に出されていたが、血筋をたどると吉宗の孫に当たる。このため、最高位とはいえ幕閣にすぎない老中に任命するまでには一悶着あったようだ。
なお、11代将軍・家斉は長命で知られ、将軍在位が50年近くにも及んでいる。この間に任命された老中は、家斉が直々に選任しただけでも20人以上いた。中でも特に名高い老中としては、緊縮財政や農村の復活を目指す「寛政の改革」を主導したものの、家斉と対立して失脚した先述の松平定信や、彼がたった6年で政治の場を去ったあともその路線を継承した松平信明ら「寛政の遺老」、そこから再び放漫財政に舵を切った水野忠成などがいる。

12代将軍・家慶の時代~幕末

家斉の死後、老中には水野忠邦が就任する。彼は傾いた幕府の財政を立て直すために「天保の改革」を進めるが、これはあえなく頓挫した。忠邦は失脚し、ここから老中制は転落の一途をたどり始めることになる。
なんといってもこの時期は幕府にとって多事多難の時代であった。内に向かっては13代将軍・家定の後継者問題があり、外に向かっては黒船の来航と西洋列強諸国による開国要請が起こった。これらの大事件を前にして幕府重鎮たちおよび諸藩は、それぞれの意見を主張して対立、国内は一気に分裂状態になってしまったのである。
特に開国問題は深刻であり、老中・阿部正弘は「幕府政治には朝廷にも外様諸藩にも口を出させない」という大前提を破ってまで意見を求めるが、このせいで幕府の権威を弱めて朝廷の名声を高めることになった。その後、同じく老中の堀田正睦は勅命を得ることによって開国問題を解決しようとしたが、強硬な反発を受けてしまっている。
このように、阿部正弘の意見募集は公武のパワーバランスを大いに乱し、幕末の混乱を加速させたとされている。
ここで満を持して大老になったのが名門出身の井伊直弼で、彼は強権によって国内を引き締め、問題に当たろうとするも、桜田門外の変で暗殺されてしまう。さらに公武合体によって朝廷の権威を利用した老中・安藤信正も「坂下門外の変」で襲撃を受け、命は助かったが失脚した。
以後、幕末の混乱はいよいよ加速していき、老中たちはついにこれを止めることができなかった。そして、江戸幕府は大政奉還を経てその歴史を閉じることとなったのである。その意味で、幕末期は「譜代大名も出世などを考えている場合ではなかった」時期といえよう。

次回「(5)譜代大名の出世頭『老中』」につづきます。
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