「明智光秀」と聞くと皆さんはどんな印象をお持ちでしょうか。誰もが真っ先に思い浮かべるのが「本能寺の変」ではないでしょうか。
織田信長を討った謀反人。その一点が強く印象に残ってしまっている方が多いかもしれません。 天下統一目前の信長を葬った裏切り者。そんなネガティブな悪者イメージのみが植えつけられているのが現状のようです。
明智家の末裔である明智憲三郎氏がついに明かす衝撃の真実として出版した著書「本能寺の変 431年目の真実」がベストセラーになり、2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」で主人公に選ばれるなど、ちょっとした明智光秀ブームがきているように思えます。
そんな光秀を今こそ取り上げ、日本史上最大のクーデター「本能寺の変」を自分なりに考察しつつ、各地に残された史跡を彼の生涯と共に紹介してみたいと思います。
本能寺
「明智光秀はなぜ謀反を起こしたのか・・・」 そんなことを考えながら何度も何度も足を運んでは想いにふけってしまうのが「本能寺」だったりします。光秀が主君信長に謀反を起こした理由としては未だに新説が出てくるほど諸説入り乱れています。
よく見聞きするのが個人的な恨み説。ドラマや小説などもほぼこの説で、学校の教科書もこれだったように記憶しております。
他の家臣らが揃う前で罵倒されて足蹴にされたり、家康への接待役を急きょ外されたり、ライバル秀吉の救援を命じられたり…、と個人的な恨みが溜まったというものです。最近の新説として、信長が四国の長宗我部を討つ事になり、長宗我部との間を取り持った光秀の面目を丸つぶしにした、というのも恨み説の類でしょう。
恨み説に次いでよく耳にするのが、自身の野望や野心が頂点に達して爆発したという説、朝廷や神に対する冒涜や非道が許せなかった説、家族や家臣・盟友や友人らを守るために立ち上がったといった誠実な説もあります。
他にも、丹波と近江を召し上げられ悲観し自暴自棄になったとする投げやり説や、気が違った・ウツになって錯乱したなどの暴走説、安土城で徳川家康の饗応役を突然変えられて面目を失った失望説、朝廷・足利義昭・イエズス会・秀吉など実は強力な黒幕がいたという陰謀説などなど……。
このように謀反の理由は多種多様に語られております。これら全てが理由かもしれません。真意は光秀の心中のみで未だに分かっておりません。中には光秀は本当は死んでおらず、後に徳川家康の側近として仕えたなんていう説までいろいろ囁かれています。
真相は不明ですが「裏切り者」という汚名を後世に残すことになるにも関わらず、謀反という手段に出るしかなかった光秀の本心とはどういうものだったのでしょう。そんな心情なども踏まえたうえで本能寺へ行ってみて下さい。すると今まで抱いていた明智光秀という男のイメージが覆り、全く違った見方が出来るかもしれません。
というわけで本来は明智光秀の生い立ちから順に紹介するべきかもしれませんが、最初は本能寺の変の舞台である「本能寺」に足を運んでみましょう。
現在の本能寺には、災禍の中で先人たちが命を賭けて守り抜いた信長ゆかりの多くの品々が宝物館にて展示公開されています。 実際に信長が所持していたという天目茶碗や信長が寄進したという香炉、信長が好んだ狩野直信の画など、お宝の数々に目が釘付けになりました。
謀反により夢半ばで自害に追いやられた信長の最期を見届けた当時の品々に胸が熱くなりました。境内には織田信長・信忠父子と森蘭丸ら家臣たちの供養塔もあります。光秀の想いと信長の想いとのすれ違いが起こした悲劇。供養塔に手を合わせながら当時に思いを馳せるのも一興かと思います。
現在の本能寺は京都市中京区寺町通リにあります。地下鉄東西線で京都市役所前駅で降り、歩いて数分でたどり着きます。 賑やかな商店街の中に突然現れるので初めて行った時は面食らいました。ぜひ訪れてみて下さい。
- 所在地
- 京都府京都市中京区 寺町通御池下ル下 本能寺前町522
- アクセス
- 地下鉄東西線「京都市役所前駅」下車すぐ。または京阪電車「三条駅」下車徒歩5分。
旧本能寺跡
さて、上に「現在の本能寺」という書き方をしましたがお気づきでしょうか。実は京都に今もある本能寺は、信長が討たれた当時の本能寺ではありません。戦国当時の本能寺は、場所も違う所にあってその規模も現在のものより大きく、堀や壁に囲まれた城塞のような堅固な寺で簡単に落ちるものではなかったそうです。
では戦国当時の本来の本能寺にも向かってみましょう。阪急烏丸駅で降りて四条通りを大宮方面に歩いて数分の場所に「旧本能寺跡」はあります。
何気ない細い道路の一角に石碑だけがひっそりと立ち、さらに奥に進むとちょっと豪華な石碑も見つけることが出来ます。 まさにここで明智軍が信長を取り囲み、天下統一を目前にして自害に追いやったその場所だと思うと複雑な気持ちになり感慨深いです。
ぐるりと歩きながら散策すると、敷地跡には老人ホームや高校などが建っており、その敷地面積の大きさには驚かされます。 本能寺を取り囲む明智軍と弓や槍を取り奮闘する信長の姿を妄想しながら想いにふけって散策することが出来ます。
- 所在地
- 京都府京都市中京区 小川通蛸薬師元本能寺町
- アクセス
- JR京都駅からバスで「四条西洞院」下車。徒歩約5分。
妙覚寺 ・相国寺
信長が討たれたことで数百年たった今でも多くの人が知るほどに有名になった本能寺ですが、本能寺以外にも信長お気に入りの宿が京都にはいくつかあったようです。妙覚寺や相国寺などにもよく信長は宿泊していたそうです。
もし信長が天正10年6月2日に本能寺ではなく妙覚寺や相国寺に宿泊していたら教科書に「妙覚寺の変」や「相国寺の変」と載っていたかもしれません。
たまたま本能寺に宿泊していた時に明智の謀反が起きたということで「本能寺の変」になりました。もちろん光秀も信長に同行したり謁見したりする際に妙覚寺や相国寺に訪れていますので、明智光秀ゆかりの地として興味のある方は足を運んでみて下さい。
桜や紅葉の名所としても有名な「妙覚寺」へは地下鉄烏丸線の鞍馬口駅から徒歩3分で行けます。 足利将軍家や伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺でもある「相国寺」へは地下鉄烏丸線の今出川駅から徒歩5分で行けます。
- 所在地
- 妙覚寺:京都府京都市上京区上御霊前通小川東入下清蔵口町135
相国寺:京都府京都市上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町701 - アクセス
- 妙覚寺:地下鉄烏丸線「鞍馬口駅」より徒歩5分
相国寺:地下鉄烏丸線「今出川駅」より徒歩8分
南蛮寺跡
「旧本能寺跡」を紹介したついでにそこから歩いてすぐの場所に「南蛮寺跡」という史跡がありますのでここも紹介します。 イエズス会宣教師が信長の庇護を得て立てた南蛮の教会があった場所で、京都での布教活動や南蛮文化普及の中心となり、1578年には織田信長父子が見物したと伝わっています。
本能寺の変には諸説あると紹介しましたが加藤廣氏が書いた小説「信長の棺」では秀吉が黒幕だという説を唱えており、信長は万が一のための逃走ルートとして南蛮寺と本能寺を地下道でつないでいたとし、光秀に襲撃された信長はこの地下トンネルに逃げ込み秘密ルートを抜けるはずが、それを察知した秀吉の工作によって途中で壁を塞がれてしまったとのこと。
そのため、信長は前に進めず火災のために後にも引けず窒息死してしまったと言います。この壁の存在を事前に知った阿弥陀寺の住職は隙を見て南蛮寺側から壁を壊し信長の遺体を運び去りました。
そのため光秀軍の執拗な探索にも関わらず信長の死体は発見されなかったというのです。黒幕の秀吉側も死体の行方を住職に迫りましたが結局、阿弥陀寺内の地中深くに埋葬され発見されることはなかったそうです。 様々な言い伝えが残る本能寺の変について点と点を線でつなぐようなこの仮説はサスペンスのようで非常に面白く読み応えがありました。
そんな南蛮寺は本能寺から200メートルほどの距離にあり、今は蛸薬師通りの雑居ビルの入り口の片隅にひっそりと「南蛮寺跡」と書いてある石碑が建っているのみです。解説板もあり、そこには「秀吉公によって弾圧され破壊された」と書かれていました。信長の死後に実権を握った秀吉はキリスト教弾圧に転じ宣教師追放令を発し、この南蛮寺も姿を消したとのことです。
- 所在地
- 京都府京都市中京区 蛸薬師通室町西入
- アクセス
- 阪急電鉄「烏丸駅」、地下鉄「四条駅」からそれぞれ徒歩15分。
阿弥陀寺
小説「信長の棺」の中で阿弥陀寺の住職が信長の遺体を運び去り阿弥陀寺に埋葬したとありました。
信長の遺体を見つけられなかった光秀の無念さや、実際に信長の遺体が眠っているとしたら夢があるとの思いから阿弥陀寺にも行ってみましょう。
まずは寺の前に「織田信長公本廟」と書かれた立派な石碑が立っていることに、ただの言い伝えレベルではなく信憑性の高さを感じました。信長の遺体や遺骨に関しては諸説あり、見つかっていないという説が最も多いのですが阿弥陀寺に本当に眠っているとしたら夢があります。
ただ旧本能寺には武器や弾薬の地下蔵があったらしく、死を覚悟した信長は切腹したのではなく地下蔵に入り一瞬のうちに爆死したとの説もあります。そのため遺体は跡形もなく飛散したと言われています。この説は京都に住む人の定説らしく現地に足を運んでみなければ知り得ない話かもしれません。
阿弥陀寺は1555年に住職が近江の坂本に創建し織田信長の帰依を得て京都の今出川大宮に移転したそうです。 豊臣秀吉の寺町造成に伴い現在地に移転された寺内には信長・信忠親子の墓や森蘭丸の墓などもありますので必見です。
- 所在地
- 京都府京都市上京区寺町今出川上ル鶴山町14
- アクセス
- 京阪電車「出町柳駅」または市営地下鉄烏丸線「今出川駅」からそれぞれ徒歩約10分。
明智城跡と天竜寺
明智光秀を語るにはどうしても「本能寺の変」は避けられないところですが、幼少期や青年期はどうだったのでしょうか。 これが実は残念なことに詳細は分かっていないそうです。明智光秀の生い立ちとしては清和源氏の土岐氏支流である明智光綱の子として生まれたとされています。
光秀が生まれたとされるのが明智城で、11歳で城主となり斎藤義龍に攻められ落城するまでの30年近くをこの城で過ごしていたと考えられています。城跡には本丸跡や曲輪や土塁などの遺構が比較的良好な状態で保存されており、明智城の散策道として整備されハイキングコースとしても楽しめるようになっています。
明智城の北のふもとにある天竜寺には、184cmという日本一大きな明智光秀の位牌があり、明智氏歴代の墓所もあります。6月には光秀公御法要が営まれているそうです。光秀が幼少期から大人になるまでを過ごした居城としてぜひ散策してみて下さい。
onaonan - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
恭パパ - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる
- 所在地
- 岐阜県可児市瀬田長山
- アクセス
- 名鉄広見線「明智駅」下車徒歩15分。
岐阜城
明智氏の本流である土岐氏は美濃で守護を務めましたが、下克上で美濃の国主となった斎藤道三にも仕えました。 しかし後に道三と息子の義龍との父子の争いに巻き込まれ道三方についていた明智は義龍に攻められ離散してしまいます。
幼少期や青年期を過ごしたと思われる斎藤家の居城・稲葉山城(現・岐阜城)にも機会があれば訪れてみて下さい。
岐阜城へはJR岐阜駅または名鉄岐阜駅から高富行きや長良橋方面行きのバスに乗り「岐阜公園・歴史博物館前」で下車、岐阜公園内から金華山ロープウェーで山頂まで行きます。見晴らしも良い人気の観光スポットでもあります。この景色を明智光秀も見ていたと思うと感慨深いです。もちろん織田信長の居城としても有名です。
- 所在地
- 岐阜県岐阜市金華山天主閣18
- アクセス
- JR岐阜駅・名鉄岐阜駅よりバスに乗車。「岐阜公園・歴史博物館前」下車。徒歩3分で岐阜公園。岐阜城へは公園内金華山ロープウェーにて。
一乗谷城
その後、光秀は越前の朝倉義景を頼って仕えたと言われています。
1565年(永禄8年)に室町幕府13代将軍・足利義輝が三好三人衆や松永久秀によって暗殺されると、その弟である足利義昭は織田信長を含む各地の武将に自身の将軍擁立と上洛を促し、細川藤孝を使者に立てて奔走。各地に援助を求めた結果、朝倉義景を頼ることになり明智光秀はそこで義昭と接触を持つことになったようです。
朝倉家に身を寄せていた足利義昭を上洛させようと奮闘していた光秀は、いくら催促しても動かない朝倉義景を頼りにならないと評し、逆に信長は頼りがいのある男だと義昭に勧めたとあります。光秀が史料に初めて登場するのが義昭を上洛させる際に信長と仲介する役としてでした。
光秀の叔母は斎藤道三の夫人であったとされており、信長の正室である濃姫は光秀の従兄妹であった可能性があり、その縁を頼ったとも指摘されています。信長と光秀との間には何らかの血縁関係があったとされ、抜擢された理由になったのかもしれません。
朝倉家の一乗谷城へは福井駅の2番のりばからJR越美北線に乗って一乗谷駅まで。福井駅西口のりばから京福バスで朝倉資料館前や武家屋敷前へも行くことが出来ます。天守など城はありませんが苔むす静けさと厳かな雰囲気の武家屋敷の集まりは心が落ち着きます。先に記した岐阜城とともに日本100名城にも指定されていて、見どころ満載の名城です。
- 所在地
- 福井県福井市城戸ノ内町ほか
- アクセス
- 車の場合、北陸自動車道・福井ICから15分。
電車の場合、JR越美本線「一乗谷駅」より徒歩約30分。
坂本城
ここでいよいよ光秀は中途採用として織田信長に仕えるようになります。
将軍や公家などに精通する知識や所作や振る舞いなどの手腕を信長に認められたのか、この時点では足利義昭と織田家の両属の家臣でした。
信長上洛の翌年にあたる1569年(永禄12年)、将軍御所の本圀寺が襲撃されたとき、護衛役を担った光秀が『信長公記』に初登場します。
その後は秀吉らと京都周辺の政務に当たり、京都奉行の職務を行っていたようです。しかし信長と15代将軍義昭が意見の食い違いで衝突するようになり、関係が次第に悪化。一方で光秀は多くの武功を重ねていき、異例のスピードで出世。1571年(元亀2年)には比叡山焼き討ちで功を上げ、ついには近江の滋賀郡に約5万石の領地を与えられ、信長の命で坂本城の築城にとりかかるのです。
このあたりから光秀は将軍義昭を見限り、織田家の家臣に編入されたとみられています。比叡山のふもとに短期間で築城された坂本城は、比叡山延暦寺の監視目的だったとされ、僧兵たちを食い止める役割も担っていたと思われます。
坂本城は小天守を備えた連立式天守とされており、宣教師ルイス・フロイスは著書「日本史」の中で「安土城に次ぐ豪壮華麗な城」とつづっています。
さて、坂本城が完成し、城主となった光秀はさらに活躍の場を広げていくのですが、この坂本の地は光秀の史跡が多く残っていますのでいくつか紹介しておきましょう。
坂本城址碑、および本丸跡
滋賀県大津市の坂本は石積みの門前町として知られ、比叡山延暦寺や日吉大社と石垣職人を生んだ穴太衆の町です。
JR比叡山坂本駅から琵琶湖の方に向かうと坂本城址碑が、次いで湖畔に坂本城本丸跡があります。
現在の坂本城の遺構は住宅地になっていて、残念ながらその正確な位置や規模などは不明。天守・城・石垣などはなく、石碑や石像だけが残されているのみです。寺町に川の流れを利用した堀を設けたような自然を利用した縄張りになっており、堀も埋め立てられているようですが、城下町だったその遺構を歩くと、意外と見応えのあるスポットだったりします。
坂本城址公園
坂本城本丸跡から少し南に行くと「坂本城址公園」があります。ちょこんと建っている光秀の銅像はどこか愛嬌のあるゆるキャラのような雰囲気です。謀反人の面影はなく、優しげな表情が印象的でした。そこから見える琵琶湖や対岸の景色、比叡の山並みは光秀が眺めていた景色と同じだと思うと感慨深いです。
明智塚
坂本城本丸跡の少し北には「明智塚」があります。ここは光秀の墓だから触ると祟られるとの言い伝えがあるそうで発掘調査もされておらず、地元の人により丁寧に守られてきたそうです。明智塚には亡くなった将兵らと共に光秀の愛刀が収められていると伝わっています。
- 所在地
- 滋賀県大津市下阪本3丁目周辺
- アクセス
- 京阪電車「松ノ馬場駅」から徒歩15~25分程度
聖衆来迎寺
さらに明智塚から西近江路を北に20分ほど歩いたところに「聖衆来迎寺」(しょうじゅらいこうじ)があります。この寺の表門は、坂本城から移築された明智時代の城門とのことなので併せて見ておきたいです。
- 所在地
- 滋賀県大津市比叡辻2丁目4-17
- アクセス
- JR湖西線「比叡山坂本駅」から徒歩15分
西教寺
坂本城跡から少し離れた場所に明智一族の菩提寺で光秀の妻らの墓がある「西教寺」もあります。 西教寺の梵鐘は平安時代に作られたもので明智光秀の寄進と言われているそうです。
本堂近くに明智一族のお墓と供養塔があるのですが、汚名一族の墓はどこか悲しみをさそいます。訪れてみて下さい。 光秀の妻・煕子(ひろこ)の墓だけがぽつんと一人離れたところにあるのが印象的でした。
- 所在地
- 滋賀県大津市坂本5丁目13-1
- アクセス
- 京阪電車「坂本駅」から徒歩25分、またはJR「比叡山坂本駅」から徒歩30分。左記2つの駅からバスでも可。バス停「西教寺」下車徒歩すぐ。
比叡山延暦寺
そして坂本城から焼き討ちのあった比叡山延暦寺へ向かいましょう。坂本ケーブルを使ってすぐに行くことができます。 延暦寺の根本中堂は最大の仏堂であり総本堂となります。本尊は薬師如来で、ご本尊の前には1200年間灯り続けている「不滅の法灯」も安置されています。
663highland, CC 表示 2.5, リンクによる
建物は国宝に指定されており、廻廊は国重要文化財に指定されていますので観光スポットとしても大変有名となっているので坂本城から比叡山に登るのも良いでしょう。
- 所在地
- 滋賀県大津市坂本本町4220
- アクセス
- JR「比叡山坂本駅」からバスで5分。または、比叡山坂本ケーブル「ケーブル延暦寺駅」徒歩すぐ。
安土城跡
そして坂本城築城の6年後に信長の安土城が完成しています。世界的に見ても安土城ほど見事な城はないと宣教師フロイスも大絶賛したという名城です。
完成のお披露目会には光秀も当然参加したでしょうし、安土から狼煙があがれば琵琶湖を船で渡り駆けつけたであろうことも容易に想像できます。
信長の天下統一事業を象徴する安土城は、戦闘よりも権威を見せつけるために築かれた城で従来の城とは性質が異なり「天守」ではなく「天主」と書くのも特徴のひとつです。日本の城は安土城以前と以降とに分けられるほどで安土城以降の城は「近世城郭」と呼ばれています。「本能寺の変」の際に焼失してしまった安土城へはJR琵琶湖線の安土駅で降りて徒歩で20分ほどで行くことが出来ます。
- 所在地
- 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦
- アクセス
- 電車の場合、JR琵琶湖線「安土駅」から徒歩25分。クルマの場合、名神竜王ICから20分。
丹波亀山城
坂本の地で一国一城の主となった光秀はさらに高屋城の戦いや「長篠の戦い」など次々と重要な戦に参戦し、ついには丹波国の攻略を任される事になります。山続きの丹波は国人と呼ばれる小大名のような群雄が割拠しており極めて治めにくい地域だったそうです。 丹波攻めは長期戦となり亀山城を落として拠点とし、各地への転戦を往復して繰り返すような戦いでした。
1579年(天正7年)に丹波攻めは最終段階に入り包囲を続けていた八上城を落城させ黒井城も落とし、ようやく丹波を平定。そしてすぐさま細川藤孝と協力して丹波に続き丹後も平定すると信長は感状を出して光秀を褒め称えたと言います。この功績により光秀は丹波一国を加増され亀山城の築城を始め、横山城を修築して福智山城と改名するなど他の家臣が羨むほどの大躍進をしました。
黒井城には家老の斎藤利三を入れ、福智山城には明智秀満を入れるなど、近江から山陰へ向けた畿内の多くが光秀が支配するようになりました。織田家での立ち位置はあの秀吉をも凌ぐほどで、一番の出世頭となりトップに躍り出て頂点を取ったと言えるでしょう。
中国地方攻略のために坂本城の次に居城とした亀山城とその周辺には光秀の史跡や足跡が多く残されています。
亀山城は保津川と沼地を北に望む小高い丘に築かれており立派な天守があったそうですが今は城は残っておりません。 築城にあたっては城づくりの名手、藤堂高虎が縄張りを務めました。五重の立派な天守が造営され、明治初期に撮影された古写真で当時の姿を見ることが出来ます。
明治維新の後には廃城処分となって所有者が転々としますが、紆余曲折の末、荒れ果てた城跡を宗教法人が入手し現在に至ります。宗教施設なので気軽に見学するにはちょっと入りずらい雰囲気ではあるのですが、すれ違う方に挨拶すると挨拶を返してくれたのでおそらく大丈夫なのでしょう。
心配な方は受付できちんと見学を申し込むと内堀跡や本丸付近の石垣なども見学することが出来るそうですよ。
- 所在地
- 京都府亀岡市荒塚町
- アクセス
- JR嵯峨野線「亀岡駅」から徒歩5分。
明智戻り岩
亀岡から大阪方面へ向かう法貴峠の旧道に「明智戻り岩」と呼ばれる大きな岩があります。光秀が信長の命で羽柴秀吉の援軍として中国へ向かう際に、この岩の前で折り返して本能寺へ向かったとされています。
光秀の心中は分かりませんが、実際に彼が歩いたとされる道を歩き、その地を見ることで何かを感じることが出来るかもしれません。
- 所在地
- 京都府亀岡市曽我部町法貴
- アクセス
- 京都縦貫自動車道「亀岡」ICから車で15分。
谷性寺(光秀寺)・ききょうの里
谷性寺
JR亀岡駅から京阪京都交通バスに25分くらい乗ると、明智光秀が本能寺に向かう際に祈願した寺で「光秀寺」とも言われている谷性寺(こくしょうじ)があります。ここには光秀の首塚があり、信長を本能寺で討つ決意をした際、不動明王に「一殺多生の降魔の剣を授けたまえ」と誓願したといわれています。
山崎の合戦に敗れ坂本城へと向かう際に命を落とした光秀を介錯した溝尾庄兵衛が近臣に託し谷性寺に光秀の首を運び葬ったと言われています。
ききょうの里
そして明智光秀の家紋といえば桔梗です。谷性寺と隣接する「ききょうの里」では、家紋となっている桔梗が多数栽培されており、光秀を偲ぶには最適の場所となっております。光秀を想い、いつのころからか桔梗が植えられるようになり、今では6月下旬から8月頃まで境内一帯が桔梗で彩られるようになりました。
- 所在地
- 京都府亀岡市宮前町猪倉土山39
- アクセス
- JR嵯峨野線「亀岡駅」からバスで約25分。クルマの場合、亀岡ICから約15分。
明智越(愛宕山)
JR亀岡駅北口から保津川を渡ってしばらく歩くと、「愛宕山」へ通じるハイキングコースの入口があります。 光秀が本能寺の変で信長を討つ際、愛宕山へ登って武運を祈願し、おみくじを三回引いたと言われる有名なエピソードがあります。
そして「愛宕百韻」という連歌を催したことでも知られています。その際に「時は今、雨が下知る、五月かな」と詠まれた句は謀反の予告ではないかと後世に語り継がれています。
明智越ハイキングコース
この愛宕山へ通じるハイキングコースは京都と亀岡を結ぶ重要なルートの1つだったとされており、深草から小栗栖へ抜けるこの道は「明智越」と呼ばれています。
ルートはJR亀岡駅北口より、「のぼり口→峯の堂→土用の霊泉→水尾旧道」となっています。記事上部のマップでぜひ確認してみてください。なお、愛宕山の頂上に登ってみたいと地元の方に聞いたら3~4時間はかかるとのことでした。気軽には登れないのでしっかりと登山する覚悟で臨みましょう。
- 所在地
- 京都府亀岡市保津町山ノ坊(明智越えの登り口)
- アクセス
- JR嵯峨野線「亀岡駅」から徒歩25分。
天王山・勝竜寺城(勝竜寺城公園)
光秀の史跡が多い亀岡ですが、亀山城を築城した丹波平定からわずか2年ほどで本能寺の変が起きます。一体どんな心境の変化があったのでしょうか。
丹波を平定したとき、信長は「丹波の国での光秀の働きは天下の面目を施した」と絶賛しています。
光秀も「瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召しだし、そのうえ莫大な人数を預けられた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」と、信長への熱い感謝の文を書いており、また別の茶会でも「床の間に信長自筆の書を掛ける」とあるように、信長を崇敬している様子が見られるほどだったと言います。
そんな光秀がなぜ信長を襲ったのか。永遠の謎と言っても過言ではないでしょう。
本能寺の変の後に秀吉が「中国大返し」で早急に引き返してきて、山崎の天王山で天下分け目の戦いをして光秀が敗れたのは有名な話です。「三日天下」というのはこの時の光秀を指して揶揄して言われている言葉ですが、実際は本能寺の変で天下を取ってから13日経っていたそうです。
天王山に登ってみると、秀吉の陣跡や実際に秀吉が腰を掛けたと言われる石などが今も残っているので登山と歴史散策が同時に楽しめるスポットになっております。
光秀が陣を張った場所には石碑が立っていますし、光秀の娘ガラシャが居城にしていた勝竜寺城も近くにあり、山崎周辺も光秀の史跡が多く残されています。
大山崎町歴史資料館や勝竜寺城の展示物に山崎の合戦についてのものが多かったので、ぜひ訪れて散策してみて欲しいです。
- 所在地
- 勝竜寺城:京都府長岡京市勝竜寺13-1
- アクセス
- JR京都線「長岡京駅」より徒歩10分。
小栗栖の明智藪
本能寺の変からの「山崎の戦い」となると、後は光秀の死について書くことしか残されておりません。
光秀の最期としてよく耳にするのは「小栗栖で農民の竹やりで突かれ自刃した」というものです。これは「明智軍記」など後世の編纂ものによって語られた内容が巷間に広まったようです。京都市伏見区にある小栗栖に行ってみました。地下鉄東西線の醍醐駅、または石田駅から歩いて行けます。
光秀の最期についても諸説ありますが、調べてみると当時は「小栗栖」と特定はされていなかったようで、最期の地は醍醐か山科あたりと伝わっていたようです。藪で竹やりに突かれた事から「明智藪」と言われている場所が伏見にあります。
要所に明智藪と書かれた看板があるので印に従って歩くと「明智藪」と刻まれた石碑があり、詳しい解説も記されていました。解説によると、光秀は当地を支配した信濃出身の飯田氏の一党に討たれたとか。実際の光秀の最期はどうだったのでしょうか…。
- 所在地
- 京都府京都市伏見区小栗栖小阪町 本教寺寺領
- アクセス
- 地下鉄東西線「醍醐駅」より徒歩15分。
ちなみに明智藪から北に徒歩で15分ほどの場所に、光秀の胴塚もあるので、併せて訪れるのもよいかもしれませんね。
まとめ
「本能寺の変」と同義語のように汚名として常に語られる明智光秀という男は、本当に悪人なのだろうか。調べれば調べるほど分からなくなります。
徳川家康が天下を取った時に自分の立場が悪くならぬよう徹底的に対戦相手であった石田三成を悪人に仕立て上げ、いかに自分が正しいかを主張し英雄であるかのように情報操作をしていたと今では分かってきています。いわゆる「勝てば官軍」というものです。明智光秀もそうされてしまったのではないでしょうか。
光秀が誠実で正しい行動の上で立派に信長を討ったとしたら、一番困る人物は誰だろう。 逆に光秀が謀叛を起こして悪者になることで一番得をした人物は誰だろう。そんなことを考えると、やはりどうしても秀吉が黒幕だったという説はいつになっても消えることはないのでしょう。
最後になりますが、本能寺の変で織田信長を討ち山崎の戦いで豊臣秀吉に敗北した明智光秀にはこんな噂があります。
「光秀は山崎の合戦で秀吉に敗れ、落ち武者狩りで殺されたか致命傷を受けて自害したと言われているが本当は死んでおらず、生き延びて僧侶となり「南光坊天海」と名乗って徳川家康と再会し参謀になって徳川秀忠や家光にも影響を及ぼした」というものです。
とても面白いし興味がわきますが、実際には年齢を計算すると100歳を越えてしまうので有り得ないとする意見が多いようです。
こんなワクワクする説が出てくるほど実は魅力的な人物が明智光秀という人なのかもしれません。 もし光秀が信長を撃たなかったら信長の野心は拡大を続け、日本の歴史も大きく変わっていたかもしれません。 また明智光秀もここまで重要な歴史的人物になっていなかったかもしれません。
2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」ではどんな光秀が描かれるのか今から楽しみでなりません。長らく明智光秀の大河ドラマ誘致を続けてきた亀岡をはじめとする丹波地方の市町村や坂本など滋賀の方々はようやく念願が叶いましたね。
2020年に向けて様々なイベントが計画されており、丹波や近江など光秀ゆかりの地は今後さらに盛り上がること必至です。 明智光秀の関連スポットをいろいろめぐってみて戦国時代に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。