記事執筆の背景、関係性の開示
今回の取材は沖縄県・一般財団法人沖縄観光コンベンションビューローがおこなっている沖縄本島を対象とした「旅行社・メディア等招聘事業」としておこないました。そのため伊丹空港から那覇空港までの往復航空券と島内の移動に使用したレンタカー代および沖縄での宿泊費(那覇市内に二泊)、さらに「糸満市観光協会観光ガイドの会」のガイド料6000円(通常は1500円、今回は特別対応のため)も自己負担なしで取材させていただいたことを開示しておきます。尚巴志によって三山が統一され、琉球王国が誕生したことを知っている方は多いと思いますが、最後まで残ったのが南山だということ、また尚巴志自身が南山の出身であることはあまり知られていないかもしれません。
過去に中山王の居城である首里城(と浦添グスク)、北山王の居城である今帰仁グスクには訪問したことがあったので、今回は残るひとつである南山王の居城、南山グスクを訪問してきました。
今回は糸満市観光協会にご協力いただき、糸満市観光協会観光ガイドの会に所属されている中川陽介さんに案内していただきました。
中川さんは作家でもあり、映画監督でもあります。事前に「今日のガイドさんは映画監督もされてるんです」と伺っていてよくわからなかったのですが、糸満市や南山の歴史を広く伝えたいからガイドもされてるんだそうです。
サービス精神旺盛な方でとても楽しく学ばせていただきました。
南山王の居城がいまは小学校に
南山グスクは現在、市立高嶺小学校の敷地となっています。
本土でも県立水戸第一高等学校の敷地になっている水戸城をはじめ、園部城、太田城、多聞山城、玉縄城、郡山城、龍岡城などなど、城址が学校になっているケースはたくさんありますが、学校になっているグスクにははじめて訪問しました。
(なお小学校の移転が決まっており、その後は広域な発掘調査が検討されているそうです)
糸満市観光協会の木下さんに先導していただき、まずは中川さんとの待ち合わせ場所、南山神社へ。
南山神社は小学校の運動場とつながっていて、いまのところ南山グスクで自由に見学できるのはこの境内部分だけです。
チラチラと横に見えている石垣が気になるのですが、これらは現存遺構だそうです(一部は積み直し)。
城門にしては広すぎるのですが、これは昭和に南山神社ができた際に広げたんだそうです。
中川さんと合流して簡単に挨拶すませると、「では問題です。15世紀の沖縄は『○山時代』というでしょうか?」といきなりクイズがはじまります。
もちろん答えは「三山時代」ですね。
中川さんがおっしゃるには「いまこのあたりは田舎ですけど、当時の南山は奈良・京都のように古都として、文化が発達していた可能性があります。たとえばハーリー(爬竜、ハーレーとも)がはじまったり、いまの沖縄の文化が南山で数多く生まれているので、南山こそが沖縄の文化のルーツじゃないか」とのことでした。
ハーリーというのは「航海の安全」や「豊漁」を祈願する神事ですね。
ちなみに高嶺小学校の「高嶺」という地名は新しいもので、もともとは「大里(おおざと)」でした。
だからこの南山グスクは「大里グスク」とも呼ばれていたのですが、じつは9kmほど離れた南城市にも「大里グスク」があります。糸満市のほう(南山グスク)を「島尻大里グスク」、南城市のほうを「島添大里グスク」と呼び分けていますが、おそらく連携しあっていたのだろうと中川さんは話されてました。
浦添グスクを取材した際に「浦添」は「うらおそい=津々浦々を治める」という意味があると教わりましたが、「島添」は「しまおそい=島々を治める」という意味で、このふたつはセットで語られていたそうです。
のちに三山を統一した尚巴志は佐敷按司として南山王の支配下にありました。
尚巴志は居城の佐敷グスクからまず島添大里グスクを攻めると、この南山グスク(島尻大里グスク)には攻め込まず、そのまま中山を攻略します。
このことから「あくまでも推測ですけど、尚巴志と南山との関係は悪くなかったと思います。なんらかの密約があったかもしれない。もし不安要素があったら背後をつかれますからね」と中川さんはおっしゃってましたが、ぼくも同感です。
悲劇の名君・汪応祖
見事な話術とフリップ芸(?)はつづきます。
汪応祖(おうおうそ)は南山王・汪英紫(おうえいじ)の息子で、明に留学し、多くの文化を琉球に持ち帰った人です。
汪応祖の兄である達勃期(たぶち)は汪英紫の長男として南山王国の領土拡大に貢献したのですが、汪応祖が帰国すると、父親が頭も良く、中国のことも理解している弟を後継に指名したため関係が悪化します。
汪英紫の死後、遺言どおり汪応祖が南山王に即位すると、豊見城グスクを築いたり、南山王国は発展するのですが、それを妬んだ達勃期によって殺されます。
達勃期は自らが王であると称しましたが、達勃期に従わなかった各地の按司たちによって攻め滅ぼされると、汪応祖の長男・他魯毎(たるまい)が南山王に擁立されました。
他魯毎という名は大和言葉に直すと「太郎ちゃん」という意味だそうです。
おそらく達勃期は領土拡大期の武将としては有能だったんだろうけど、統治能力や調整能力に欠けていたので按司たちは従わなかったのではないかと中川さんはおっしゃっていました。
「もっとも南山についての文献が残っていないので、こうしたエピソードはすべて推測ですけどね」とも話されていました。
ただ、兄が弟を殺したこと、しかしその兄は一瞬だけ王位についたものの各地の按司たちに反乱され殺され、弟の子が即位した、という事実が残っているそうです。
こうした身内での内紛、殺し合いは本土でもたくさん起きていましたが、琉球も同じなんですね。
運命の嘉手志川(カデシガー)事件
王となった他魯毎はその後、中山王となった尚巴志によって滅ぼされています。
このときのエピソードとして、多魯毎が尚巴志の持つ金の屏風を欲しがり、湧水(=嘉手志川)と交換したことがきっかけとされています。
当時の南山の繁栄は貿易で支えられていたのですが、同時に嘉手志川流域で水稲がさかんにおこなわれていたので、それを中山に差し出すとは何事だと農民が一斉に離反した結果、南山が滅んだと伝わっています。
「ですが」と中川さんはこの話は中山によって捏造された歴史だと話されます。
この時点では北山も滅ぼされ、琉球の大半が中山(=尚巴志)の支配下にあり、南山もかつての西半分しか領土がなかったので、南山としては貿易で生き残るしかなかったというのが中川さんの説です。
中川さんはマレー半島のシンガポールにたとえて説明されてましたが、ドバイも近いですね(ドバイは周辺国と比べると石油があまり採れないので貿易によって急成長を遂げました)。
さらにその根拠が、多魯毎が求めたという金屏風です。
もともと屏風は中国で生まれたものですが、サイズは小さなものでした。日本の室町時代に狩野派を中心に、巨大で、しかも花鳥風月――それも中国の古典に題材をとった豪華な金屏風ができると、明への貢物・輸出品としてものすごく価値があったそうです。
明の皇帝からの書状が残っていて、それには「次の船では必ず金屏風を貢物として持ってこい、なければ入港させない」といったことが書かれているそうです。
このように金屏風は大変重宝されたのですが、多魯毎が王となった時代は室町幕府も勘合貿易を認められて大量に金屏風を明に贈っていたため、品薄となり本土から仕入れることができなかったのではないか、そこで南山は中山から入手するために嘉手志川を差し出した、いいかえると農業を捨てて貿易に特化することで国としての生き残りをかけたという仮説ですが、すごく説得力がありますよね。
さすが作家だなあと感心するとともに、まさか沖縄で狩野派や金碧障壁画の話をすることになるとは思わなかったので驚きました。
ちなみに「沖縄に金屏風は残ってないんですか? それだけ取り扱っていたなら狩野派の作品が何枚か残っててもおかしくないのでは」と聞いたのですが、沖縄観光コンベンションビューローの人たちもわからないとおっしゃってました。
どこかで見られるといいですね。
多魯毎が最後の南山王として尚巴志に滅ぼされた1429年というと、大和では室町幕府6代将軍・足利義教の時代ですから、まだ狩野派は出てきてませんね。狩野派の初代・狩野正信が幕府の御用絵師となったのは8代将軍・足利義政(1449年〜1473年在任)の頃かその少し前なので、もう少しあとの話になります。
おそらくこの頃に明へ送られた金屏風というのは土佐派による「やまと絵」だと思います。いやはやお恥ずかしい。
この嘉手志川は南山グスクからすぐ近くにあります。
赤瓦の建物のところから、いまも水が湧き出てるそうです。夏には近所の子どもたちが水浴びして遊んでいるとおっしゃってました。
最後の戦いは、まるで大坂の陣
1423年に南山は滅びますが、この最後の戦いはかなり激しいものだったそうです。
尚巴志に滅ぼされた武寧王(旧中山勢力)の人たちや北山の人たちも南山グスクに集まって、尚巴志へのリベンジを果たそうとしていたようですが、まるで「大坂の陣」の際に全国の浪人が大坂城に集まってきたみたいですね。
郷土史によれば、南山軍の勢いは中山軍を押し返すほどで、尚巴志の右腕だった弟もこの戦いで討死しています。
「南山グスクは遺構も石垣くらいで、見学できるエリアも限定的なので、こうして歴史の話や人物の話をして楽しんでもらうようにしてるんです」と中川さんはおっしゃっていましたが、ほんとに楽しくてずっと聞いていたいと思うほどでした。
お手製のフリップも攻城団としても見習いたいですし、今後のガイドツアーのヒントにもなりました。
なお小学校の運動場ギリギリのところに城址碑が建てられています(写真右端)。
過去の発掘調査では中国製磁器や明銭などは見つかっているものの、建物の礎石や瓦は出土していないので、小学校の移転後に大規模な発掘調査ができるとあらたな発見があるかもしれませんね。
最南端のグスク=具志川グスクへ
つづいてクルマで移動して、沖縄本島で最南端のグスクといわれる具志川グスクへ向かいました。
駐車場には数台クルマが止まってましたが、サーフィンに来てる人のクルマでした。あと飛行機の写真を撮影しに来てる人もひとりいました。
ここは攻城団に投稿される写真を見ていて、ぜひ自分の目で見てみたかったんです。
野面積みなのにアーチを描いた城壁が見事なので。
ちなみに伝承としては、久米島にあった具志川グスクの二代目按司・真金声(まかにくい)が戦いに敗れて本島まで逃れてきて築いたのがこのグスクで、だから名前が同じといわれてるのですが、真偽は不明です(ぼくは疑わしいと思っています)。
中川さんもその可能性は低そうだとおっしゃっていて、なぜなら生活した痕跡がないからです。煮炊きをしたあともなければ、そもそも水がないので、ここを拠点にすることはむずかしいと。だから海岸警備のための見張りか、あるいは貿易船の積荷を一時保管するために使っていたんじゃないかということでした。
(首里城にとっての御物グスクや、南山グスクにとっての照屋グスクのような存在)
グスクがたんなるお城ではなく、規模も用途もさまざまであったことは「グスク展」を取材して学んだことですが、生活の痕跡や井戸の有無を見ることで、特殊な用途で使われたことがわかります。
あと現地はほんとうに風がすごかったので建物は建てることは不可能でしょうね。
二の郭には「ヒーフチミー(火吹き穴)」と呼ばれる穴があります。
この竪穴は東の崖下にある横穴とつながっていて、船からの荷揚げ用だったとも、緊急時の避難用だったともいわれています。
一の郭のほうが低いというのも珍しいですね。
見渡すかぎりの太平洋です。
風などの影響で那覇に入港できなかった船にとっては最後の寄港地なので、そういう意味でも貿易に使われていたのかもしれませんね。
10分ちょっとで見終わってしまうくらいの小さなグスクですけど、天気が良ければ石垣をのんびり眺めるのがいいと思います。
まとめ
中川さんの話はほんとうにおもしろかったです。
「聞いてくれる人がいるとずっと話していられるね、このまま飲みに行こうか!」と笑ってらっしゃったのがとても印象的でした。好きなことをちゃんと勉強されている方が、あふれんばかりの愛情を持って語ってくださると、聞いてるほうはそりゃ楽しいに決まってますよね。
金屏風の話も興味深かったです。
当時は輸出品として硫黄や馬、日本刀が中心だったことは「グスク展」で山本学芸員から教わっていましたが、まさか金屏風もそのひとつだったとは(南山ではフカヒレなども輸出していたようです)。
ぼくらは日本史のひとつのトピックとして「1401年(応永8年)に足利義満が遣明使を派遣して、勘合貿易がはじまった」と習いましたが、そのことによって琉球に影響が出ていたこと、ひいては尚巴志による三山統一を後押ししていたというのは意外な結びつきでした。
歴史というものが相互に影響を与えあいながら紡がれていくということをあらためて認識することになりました。
ちなみに中川さんは他魯毎を主人公にした小説「金の屏風とカデシガー」を書かれています。
2016年(平成28年)に「第11回おきなわ文学賞」第二席を受賞された作品で、「唐船ドーイ」という短編集に収録されています。書籍自体は沖縄県内の書店でしか買えないそうですが、自分用と2冊購入できたので、後日1冊をプレゼントに出しますね。
ぼくはすでに読みましたが、他魯毎がすごく魅力的でした。
訪問される際は道の駅「道の駅いとまん」での食事をオススメします。
ぼくは「お魚センター」でお刺身をちょっとずつ買って、オリジナル海鮮丼をつくって食べましたよ。
糸満市はぜひまた訪問して、中川さんの話をもっとたくさん聞きたいです。
ガイドをお願いするには
中川さんにガイドをお願いするには糸満市観光協会に相談すればいいそうです。
ほかにもさまざまな得意分野を持った総勢20名のガイドがいらっしゃるので、訪問したいエリアによってコーディネートしていただけます。
沖縄まちまーい あ・るっく糸満【字大里コース】│糸満市観光協会
料金は通常コース1500円、今回のように取材に同行いただく場合は特別対応として6000円となっています。