記事執筆の背景、関係性の開示
今回の取材は沖縄県・一般財団法人沖縄観光コンベンションビューローがおこなっている沖縄本島を対象とした「旅行社・メディア等招聘事業」としておこないました。そのため伊丹空港から那覇空港までの往復航空券と島内の移動に使用したレンタカー代および沖縄での宿泊費(那覇市内に二泊)、さらに「うるま市史跡ガイドの会」のガイド料3000円も自己負担なしで取材させていただいたことを開示しておきます。勝連グスクというと海際に築かれた美しい石垣が特徴のグスクで、世界遺産のひとつとして知られていますね。
でも今日からは琉球の麒麟児・阿麻和利(あまわり)の居城として、阿麻和利という人物とあわせておぼえてください。琉球にも日本の戦国武将と同じように魅力的なキャラクターがいたんだなとあらたな発見になると思います。
今回はうるま市史跡ガイドの会の仲村さんに案内していただきました。
勝連グスクは通称「進貢船のグスク」
勝連グスクは勝連半島(与勝半島とも)の中城湾に面した標高98mの小高い丘に築かれたグスクで、築城年代は12~13世紀頃と考えられています。
その形状は当時、明との交易船に使われた「進貢船(しんこうせん)」のように、真ん中がいちばん低くて、両サイドに高まりがあることから「進貢船のグスク」とも呼ばれています。
ちょうど駐車場のある「勝連城休憩所」前にジオラマがあるので、まずはグスクの全体像について説明していただきました。
なお船でいうと船尾側にあたる「東の曲輪」は現在、ヤブになっていて入ることができません。
ではさっそく城内に向かいます。
現在は舗装されたスロープになっていますが、当時は奥に見える道が登城路でした。
こちら側は搦手にあたり、西原御門(にしはらうじょう)につながっています。
周辺は湿地帯で、敵の行軍を阻害するようになっていました。
湿地帯を防御に使うというのは豊臣大坂城や忍城はじめ、本土のお城でもよく見られたアイデアですね。
ふだんは田んぼとして稲作をしていたようで、じっさい明治初期まで田んぼとして使われていたそうです。
なお湿地帯があるということは水が豊富ということでもあり、後述しますが、城内には井戸もたくさんあります。
階段をのぼると四の曲輪に出ます。
四の曲輪
城内でもっとも広いのがこの四の曲輪です。約2000坪あるとか。
上の写真の右側、つまり三の曲輪側に重臣の居住区が、反対側にはノロ(神女)や鍛冶屋など職人の屋敷があったと考えられています。
奥のほうに進むと、大手門にあたる南風原御門(はえばるうじょう)と呼ばれるアーチ式の門があったそうです。
四の曲輪には5つの井戸(カー)があり、まず西原御門のそばには訪問者が手を洗って清めるために使われた「門口のカー」が、そしてノロと呼ばれる神女の屋敷には「ヌールガー」と呼ばれる井戸がありました。
また鍛冶屋の屋敷には「仲間ヌウカー(カンジャガー)」があったのですが、このように生活用水以外の目的で水を使えるほど、水には困らなかったようです。
いまは枯れちゃってますね。
奥には一段高くなったエリアがあり、身分の高い者の屋敷があったんじゃないかと考えられています。
ここには「夫婦ガー(ミートゥガー)」と呼ばれる井戸と、「ウタミシガー」と呼ばれる井戸があります。ウタミシガーだけ水がまだあります。
四の曲輪から三の曲輪へ
四の曲輪が標高63m、三の曲輪が83mなので、20mの高さを誇るこの城壁は下から見るとかなり迫力があります。
(なお城壁はほとんどが復元で、下のほうの一部だけが現存遺構です)
勝連グスクは最終的に首里(琉球王府)の軍勢に攻められるのですが、その際に多くの兵がここで殺されたそうです。
「城壁に沿うように右側から旋回してのぼる構造は、敵軍による攻撃のアプローチを制限し、また階段を急勾配にすることにより侵入者の体力を消耗させ、さらに右手側城壁より攻撃を加えることで、敵軍の機動力と攻撃力を弱める効果があります。」と案内がありましたが、ようするに攻撃ルートを限定し、敵を整列・密集させ、狙いやすくする仕掛けになっているわけですね。
でもなぜ左回り(反時計回り)なのでしょう。旋回させることに意味があるなら右回りでもいいですよね。
話を聞いて疑問に思ったので「沖縄の人は右利きが多いんですか? 左回りにすれば守備側は右手が外に出るので、向かってくる敵に対して石を投げたり弓を射たりする際に有利なようにしたのでしょうか」と質問したら、仲村さんは「右利きが多いかわかりませんが、その説はこうのさんが初ですね」と素人の思いつき発言を興味深く聞いてくださってました。
籠城側は城壁に隠れながら攻撃できるよう基本半身なので、利き腕は意識したような気がします。
あるいは小学校の運動会からオリンピックまで、陸上のトラック競技では左回りのコースになっていますが、これは心臓が左にあり人体の重心は左半身にかかりやすいため左回りのほうが走りやすいからというのが定説となっています(諸説あるそうです)。
だとすればあえて走りやすい左回りにしておき、意図的に渋滞する状況を誘発したのかもしれませんね。
いま三の曲輪までは階段が設置されていますが、その脇に当時のルートがあります。
「今日はこちらを進みましょう」と仲村さんが先導してくれます。
首里城の石畳のように舗装されているわけではなく、琉球石灰岩の岩盤がほぼむき出しみたいになっているので、スニーカーでも足の裏が痛いです。
ここを攻める兵は大変だっただろうと思います。
(誰でもこちらのルートを通れるのですが、足場が悪いので気をつけてくださいね)
なおこの城壁の最下部のところだけが当時の石垣で、上にあるのはすべて積み直されたものです。
そして最難関となるのが三の曲輪の城門です。
ここには四脚門(薬医門)があったとされるのですが、すなわち勝連グスクには瓦葺きの門があったということでもあります。
なおこの門を琉球王府軍はどうやって突破したのかというと、討伐軍の大将で鬼大城(うにうふぐしく)の名で知られる大城賢雄(うふぐしくけんゆう)が女装して駆け込んだという逸話が残っています。ただ鬼大城は人並みはずれた大男だったので、それはないだろうと仲村さんはおっしゃっていました。
もともと鬼大城は阿麻和利に嫁いだ王女・百度踏揚(ももとふみあがり)の従者として勝連グスクで暮らしていたので、内応者がいたと考えたほうが自然でしょうね。
三の曲輪
入ってすぐのところに四脚門の礎石があります。
三の曲輪は多目的広場として使われていたそうです。
首里城では正殿の前に御庭(うなー)という儀式のために使われる広場がありますが、勝連グスクの場合はスペースが限られているため、儀式以外にも戦の前に兵を集めるなどさまざまな目的に使っていたと考えられています。
ここに不思議な遺構があります。
「すり鉢状遺構」という円形に囲われたスペースがふたつあるのですが、謎の遺構です。粘土で成形されていることから、水を溜めるのに使ったのではないかと考えられているそうですが、城内には井戸もあって水が豊富なので雨水を溜める意味がないんですよね。
なんらかの儀式に使われたのかもしれません。仲村さんはグスクができる前に集落があって、その頃に使っていたのをグスクを築く際に埋めたのではないかとおっしゃってました。
三の曲輪のすぐ上が、正殿があったとされる二の曲輪です。
石段でのぼれるようになっています。
仲村さんに教えていただいたのが、阿麻和利による二の曲輪の拡張跡です。
写真右側の出っ張り部分が阿麻和利の時代に拡張されたそうです。
熊本城の本丸御殿のところも後年、石垣が拡張されて「二様の石垣」となっていますが、こういうところでも本土のお城との共通点が見つかっておもしろいですね。
二の曲輪
正殿があったとされるのが二の曲輪です(公式サイトには正殿の記載はなく「舎殿跡」とあります)。
広さは間口(横幅)約17m、奥行き(縦幅)約14.5mで、首里城正殿のような瓦葺きの仏殿風建物であったと推測されていますが、じっさいのところはよくわかっていません。
仲村さんは「そんなに立派じゃなかったと思う」と話されてましたが、ただ瓦が大量に見つかっていることから、瓦葺きだったことはまちがいなさそうです。
この当時、瓦は輸入していたそうですが、琉球で瓦が出土しているのは首里城と浦添グスク以外ではここ勝連グスクの3つしかありません。
前者ふたつが王府であるように、瓦を使えるというのは財力があり、また明や日本と交易できるだけの権力があったことの証拠でもあります。
つまり勝連グスク=阿麻和利は首里と主従関係にあった按司のひとりではなく、むしろ首里の対抗勢力だった可能性があると仲村さんはおっしゃってました。
だからこそ尚泰久王は自らの娘を嫁がせて懐柔しようと試みたのではないかと。
琉球に残る歌謡集「おもろさうし」には「勝連わ何にぎやたとえる 大和の鎌倉にたとえる」と歌われたように、当時は鎌倉にたとえられるほど栄えていたとされます。
この鎌倉というのがポイントで、ようするに首里=京都であり、それに対抗する都市としての鎌倉にたとえられたわけですね。
(阿麻和利が攻め滅ぼされたのは1458年で本土では「応仁の乱」がはじまる少し前ですから、鎌倉時代を前提としたイメージかな)
瓦葺きとあわせて、もうひとつの特徴は柱の幅がかなり狭いことです。ちなみに見えている礎石は復元で、本物は埋め戻されています。
また大黒柱と思われる跡が四隅にあるのですが、かなり密集しているのでなんのためにあったのか謎なんだそうです。
いちおう風が強い場所に建てるので強度を増すためともいわれますが、よくわかりません。
(たしかにいまでもこの場所は風が強いです)
またここには「ウミチムン」と呼ばれる火の神(ひぬかん)を祀った拝所と、「ウシヌジガマ」と呼ばれる洞穴があります。
このウシヌジガマは脱出路だったという説がありますが、落城の際に阿麻和利はここではなく一の曲輪の城壁を縄で降りたようなので「真田の抜け穴」伝説と同じような作り話だと思われます。そもそも追い詰められた状態では二の曲輪は占拠されてますからね。
ただ今帰仁グスクにはほんとうに志慶真川(しげまがわ)に抜ける抜け穴があるみたいです。
二の曲輪から一の曲輪へ
階段の途中から北東側の景色を案内してもらいました。
当時こちらには4か所の池があり、また障子堀のようなものがあり、防衛ラインを構築していました。
またこの石段は徐々に狭くなるように、しかも石段の幅(奥行き)と高さをバラバラにすることで攻撃側が転んだり、詰まって二の曲輪側に落ちるようになっています。
ここまで敵が攻め寄せている時点で負けは確定なのですが、城主を逃がす時間を稼ぐためでしょうね。じっさい阿麻和利は脱出に成功して読谷まで逃げています。
ここにかぎらず、グスクの石段は水はけをよくするためと、攻めにくいように傾斜がついています。
一の曲輪
もっとも高いところにある一の曲輪に入る門はアーチ門でした。
しかも捲髭(まきひげ)状の浮き彫り(唐草模様?)の装飾がある、珍しい門だったことが出土した石材からわかっています。
一の曲輪には交易によって入手した物資を保管する宝物庫があったと考えられています。
出入り口が門ひとつだけで誰も入れない場所というのもありますが、仲村さんは神様に守らせるという意味もあったんだろうとおっしゃってました。
グスクの場合、正殿のような政庁(または儀式の場)はあるのですが、天守や物見櫓などの建物はありません。
これはもともと見晴らしのいい場所に築かれているので5m、10mくらい高い建物をつくる必要がなかったのと、もうひとつは風が強くて建てられなかったんでしょうね。今回の取材旅行でも多くのグスクを訪問しましたが、高台や海際に築かれていることが多く、どこも風が強かったです。
そしてここからは中城グスクがよく見えます。
ここから中城グスクまで約10km、さらに中城グスクから首里城までも約10kmとなっており、地図で見てもほぼ一直線にならんでいるのがわかります。
ただいろんな本に書かれている「勝連グスクの阿麻和利に対抗するために、琉球王府が護佐丸を座喜味グスクから中城グスクに移した」という話はまちがいだそうです。
護佐丸が中城グスクに移ったのは尚忠王時代の1440年、阿麻和利が勝連按司になったのは1454年と時代があわないのがその理由です。
最近の学説では、護佐丸と阿麻和利が争ったのは交易圏争いによるものだと考えられているそうですね。つまり護佐丸は(阿麻和利ではなく)首里=琉球王府の対抗勢力として力をつけている勝連グスクを抑えるために派遣されたということです。
そして勝連按司となった阿麻和利はその財力や交易力を武器にさらに勢力を拡大して、両者の緊張状態が高まっていったと考えられています。
一の曲輪は360度ほんとうに見晴らしがいいのでオススメです。風はめちゃくちゃ強いですけどね。
阿麻和利の再評価――護佐丸と阿麻和利、ふたりの英雄の善悪――
歴史というものが勝者に都合良く書かれたものであるということは世の常で、本土においても明智光秀や石田三成は悪人として伝えられてきました。
また光秀を悪人に仕立て上げた豊臣秀吉でさえ、のちの徳川には否定されるわけで(さらにいうと明治維新によってその徳川も否定されます)、歴史というものは過去の否定の上に築かれてきたということもできます。
まず通説についておさらいしておくと、琉球王国の正史では阿麻和利はクーデターを企てて琉球王府によって攻め滅ぼされた悪人として記録されています。
また護佐丸についても、阿麻和利の讒訴によって自害に追い込まれたものの、謀反の心はなかったと悲運の英雄という立ち位置で描かれています。
しかしここで注意しなければならないのは、阿麻和利についての記録はほとんど残っていないことと、正史は護佐丸の子孫が書いた家譜がもとになっているため、先祖の敵である阿麻和利をよく書くわけがないということです。
加えて、護佐丸が王に申し開きすらせずに自害したことや、護佐丸の忠義が自害によって(さらにその後の「阿麻和利の乱」により)証明されたにもかかわらず護佐丸の娘(=尚泰久王の正室)が産んだ男児2人が王位を継承できず追放されたことなど、不可解な点があり、「忠臣・護佐丸、逆臣・阿麻和利」という構図の再評価が進んでいるそうです。
首里が巻き込まれたことは事実ですが、そもそもは上述のとおり交易圏の争いが発展して戦争になっただけで、琉球王府は無関係という説もありますし、尚泰久王の右腕である金丸が護佐丸・阿麻和利という有力按司の排除を目論んだ謀略説まであるみたいです。
さらにいうと「阿麻和利の乱」とクーデター扱いになっていますが、そもそも勝連グスクが琉球王府の支配下ではなく、独立勢力として存在していたのであれば、それは「乱」ではなくたんに戦争に敗れただけともいえますね。
(もっともこの時点では阿麻和利と琉球王尚泰久は姻戚関係にあるわけですが)
まとめ
約2時間にわたり、仲村さんに勝連グスクを案内していただいたのですが、とても楽しかったです。
阿麻和利については名前こそ知っていたものの、知略に長けた名将が最終的に身を滅ぼしたというイメージでしかなかったので、これがよくある「勝者の歴史」による印象づけだと教わったことも大きな収穫でした。
もちろん阿麻和利の評価が敵である護佐丸側の史料に基づいているように、阿麻和利が悪政を強いる先代の茂知附按司(もちづきあじ)を倒して10代目の按司となったという逸話も阿麻和利にとって有利なように創作した可能性があります。
ただ少なくとも「おもろさうし」で名君と讃えられるほどには阿麻和利は慕われていたのでしょうし、瓦葺きの殿舎を築くだけの財力と権力があったことも事実です。
麓の「勝連城跡休憩所」には出土物などが展示されています。
一の曲輪のアーチ門の飾りも見れるので、忘れずに立ち寄ってくださいね。
ちなみに仲村さんによれば、うるま市には21のグスクがあるそうです。
攻城団にはまだ4つしか登録できてないので、ぜんぶ登録できたら仲村さんに案内していただきたいなと思っています。
ガイドをお願いするには
仲村さんが所属されている「うるま市史跡ガイドの会」にガイドをお願いした場合の料金表です。
人数 | 料金 |
---|---|
1人〜5人 | 3000円 |
6人〜15人 | 5000円 |
16人〜25人 | 8000円 |
26人〜35人 | 10000円 |
詳しくは以下のサイトをご覧ください。
うるま市史跡ガイドの会