榎本秋の「10大戦国大名の実力」
ゼロ年代あたりからの戦国時代ブームもすっかり定着した感があります。
振り返ってみてもビックリなのは、このブームを動かしていたのは従来「歴史ファン」という単語から想像される人々だけではなく、一見、歴史に全く縁がなさそうな女性――人呼んで「歴女」たちの存在があったことです。
ブームの火付け役になったのは、コーエーの『戦国無双』やカプコンの『戦国BASARA』などの戦国時代を舞台にしたゲームや、『風林火山』『天地人』『真田丸』といったやはり戦国時代ものの大河ドラマのヒットでした。近年だと『刀剣乱舞』もそうですね。
おかげでTVではしょっちゅう歴史ネタの番組をやっていますし(かくいう私もその種の番組で取材を受けたことがあります。ひどく緊張してガチガチでした)、書店でも戦国時代を扱った本が山のように積まれているのを見ることができます。ただ、そうした本の多くは戦国武将たちのキャラクター性やエピソードに注目しているものがほとんどだったりします。
面白いところでは、「聖地巡礼」と称して戦国武将ゆかりの史跡や博物館、祭りなどに出かける女性の数がぐっと増えた、というのもあります。コバルト文庫の小説『炎の蜃気楼』のファンや、新撰組のファンなどが同じような行動をするのは以前からよく知られていましたが、それがここまで広まったのは近年のことです。これも、キャラクター性への注目ですね。
一方の私は研究者ではないものの、史跡めぐりが趣味で、本も小説もゲームも「歴史」と名のつくものは一通り触って見るのが信条の歴史ファンです。なにか別の視点から、戦国時代を切り取ることはできないものか――そこで思いついたのが、「家」に注目することでした。
「ローマは一日にして成らず」という言葉があります。同じように、戦国大名の基本構成単位である「家」もまた一日にしては成らない。そこには数百年から千年に及ぶ、綿々たる歴史が隠されているのです。
本連載のコンセプトはその「家」をとっかかりとして、戦国大名の真の姿に迫ろうというものであります。そのためにバラエティに富んだ十家の戦国大名を用意しました。彼らがどのように始まり、どのように戦国時代を迎え、そしてどのような結末を迎えたのでしょうか? それらを紹介する中で、戦国大名の実情が理解出来るような内容を目指しました。
そうしていくつもの「家」を見てきてまざまざと実感させられたのですが、戦国時代の「家」と現代の「企業」にはかなり近い部分があります。どれだけ時が経過しても、人間の作る組織はそうそう変わったりはしない、ということでしょう。
成功する「家」の形、失敗する「家」の形は、そのまま成功する企業の形、失敗する企業の形になります。そうした組織論の部分でも本連載を楽しんでいただければ幸いです。
なお、本連載で「戦国大名」と表記した場合は家や氏などの血族を中心とした武力・政治集団を示し、その頂点にいるリーダーは「当主」と表現します。大名は当主を指す言葉として一般的には使われることが多いのですが、本連載では血族を指す言葉として統一しています。
織田信長や伊達政宗といった傑出した個別の当主の力量のみを論じるのではなく、彼らを輩出した「家」や「血族」などの総体を戦国大名として捉え、読み解いていくのが狙いです。この連載の元になった本のタイトルを『10大戦国大名の実力』としたのも、そのような文脈においてのことでした。
それから、「氏」と「家」の使い分けについては、複数の「家」を含む血族集団を「氏」と表現しました。ご了承願います。
家を遺す上でもっとも大切なことは「強者に目をつけられない」ことです。権力者に媚びるために偏諱を賜うとともに、権力者が交代してしまうとその子を廃嫡するというのはなんとも残酷な話ですが、それが戦国の世を生き抜く術だったのでしょうね。
こうして島津家の歴史を振り返ってみると、島津忠良(日新斎)にせよ、島津忠恒にせよ、本家・嫡流以外が宗家を継いでいるんですよね。嫡子がいなかったとはいえ、一族を見渡して優秀な人材を後継者に任命してきたからこそ幕末まで生き残れたのかもしれませ…
朝鮮の役で朝鮮・明軍から「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と恐れられ、関ヶ原の戦いでは見事な退き口で東軍に衝撃を与えた義弘でしたが、もし当初の予定通り彼が伏見城に入っていたら、籠城する鳥居元忠たちと討死していた可能性が高そうです。
この時点の秀吉に対抗できる勢力はもはや日本国内には存在していなかったと思いますが、それでも島津家はかなり激しい抵抗をしています。 それもあってか降伏後の秀吉の処遇は次の北条氏と比べるとかなり差がありますね。
三州の覇者となった島津家はそのまま九州統一に動きます。個性の異なる兄弟が各方面で活躍することで大友氏や龍造寺氏を倒し、勢力を拡大しましたが、彼らが得意としていたのが「釣り野伏せ」と呼ばれる囮戦術でした。
島津家中興の祖・島津忠良は島津氏の分家である伊作家の出身です。彼が息子・貴久を島津宗家の養子にしたことで島津家の躍進が始まります。忠良が息子を後見するため出家して日新斎を名乗ったのはまだ33歳だったんですね。
鎌倉時代から江戸時代まで薩摩を支配しつづけた島津家の歴史は戦乱からはじまります。一族内の争い、周辺の伊東氏や相良氏、肝付氏らとの争いと常に戦いの中にあった印象です。
長宗我部元親ははたして信長の言うとおり「鳥なき島の蝙蝠」にすぎなかったのか、あるいは秀吉や家康という鳥が大きすぎたのか、いずれにせよ(信親を失う不運もありましたが)土佐から天下を狙うには少し遠かったのかもしれませんね。
信長との対立から二度目の滅亡待ったなしの長宗我部家でしたが、本能寺の変により九死に一生を得ます。立て直した元親は四国統一に向けて再スタートしますが、羽柴秀吉が大軍を差し向けたため降伏することになります。 その後に起きた嫡男、信親の討死も不幸…
父・国親は「野の虎」とまで称された武将でしたが、その子どもである長宗我部元親は当初「姫若子」と軽視されていました。しかし初陣で活躍すると家中の評価も一変し、その後は父以上の才覚を見せて勢力を拡大していきます。
始皇帝の子孫という説もある長宗我部家は、一度滅亡しながらも戦国時代に再興して土佐を統一し、さらには四国を平定するまでに復活したドラマチックな武家です。 長宗我部元親が有名ですが、じつはそのお父さんの長宗我部国親もすごい人でした。
勢力を拡大せず、むしろ関ヶ原の戦いによって大幅に削減されてしまった毛利家ですが、とはいえ吉川広家らの貢献や犠牲により家を潰さなかったからこそ、幕末のリベンジがあったわけで、家を遺すというのはほんとうに大事なことなんだなと思いますね。
急拡大した勢力が包囲網にさらされるというのはのちの織田信長に似てますね。元就が存命であれば対処できたかもしれませんが残念です。 またその孫の輝元が信長包囲網に加わるというのもおもしろいですね。
桶狭間の戦い、河越夜戦と並び、日本三大奇襲のひとつとされる厳島の戦いは3つの中でもっとも入念に準備された奇襲だといえます。ターゲットの陶氏(大内氏)以外に、尼子氏、少弐氏、村上海賊などにも策を講じて万全の状態で決戦を挑みました。
尼子氏と大内氏にはさまれた国衆にすぎなかった毛利氏が元就の才覚によって戦国大名になっていく流れは見事ですね。 とくに1550年(天文19年)におこなった毛利両川体制の確立と井上元兼とその一族の排除は大きな転換点となりました。
毛利元就が大江広元の子孫であることを知らない方も多いかもしれませんね。 元就は兄・興元の嫡男・幸松丸がわずか2歳で家督を継いだ際にその後見人をつとめたのですが、その幸松丸が9歳で死去したため、27歳で家督を継ぐことになります。
榎本先生が結論で述べられているように、武家や国衆ではない庶民の出で大名化したのは斎藤家や豊臣家くらいで、戦国時代は下剋上の時代とはいってもそれなりの基盤がないと成り上がることはむずかしいのですね。 斎藤家4代の物語は非常に興味をそそられます。
武田家などの例もあるように、親子の対立は戦国時代ではさほど珍しくないのですが、追放ではなく殺してしまったという点が斎藤家の特徴であり異端な点だと思います。 その義龍は信長の暗殺を企てたと『信長公記』に残っていますが、父・道三に目をかけられた…
斎藤道三の国盗りが父親との親子二代にわたるものであったとする発見は、北条早雲=素浪人説の否定と同様に近年における大きな定説の転換ですよね。 歴史研究家のみなさんのおかげですが、こうした定説が上書きされる時代を生きるのは幸せなことです。
信定、信秀、信長とつづいた経済感覚に優れた織田家の当主の跡継ぎとして、信忠がどんなふうに成長したのかは見てみたかったですが、帝王学といったところでそう簡単に親から子へ能力が受け継がれるわけじゃないので彼が生き延びていたとしても、けっきょく…
織田家の面々が生き残ることができたのも、信長が被害者でありその死を惜しむ人が多かったということなのかもしれませんよね。万人恐怖な存在だったら息子や兄弟は皆殺しでもおかしくないので。
信雄が養子に入った北畠家は伊勢国司の名門であったのに対して、信孝が養子に入った神戸家は国人領主にすぎないので、もともとこのふたりの織田家内での格差は大きかったと思います。 ただ信長もこの格差を是正することを考えており、信孝を四国攻めの総大将…
のちに信長が飛躍する基盤をつくり、自身も「器用の仁」や「尾張の虎」と称された織田信秀の存在こそ織田家にとって最重要人物かもしれません。その父(信長の祖父)・織田信定が津島を手に入れ、二代にわたって高めた経済力がなければ信長の快進撃はなかっ…
守護の勢力が弱まり、守護代が権力を握っていく構図は下剋上そのものですが、織田家もまた尾張守護・斯波氏から実権を奪った守護代でした。さらにその織田家内部の争いも起こり、のちに信長を輩出する弾正忠織田家が台頭することになります。
織田家が平氏の子孫かどうかについては諸説ありますが、越前にある神社の神官の家系であることはまちがいなさそうです。越前朝倉家を滅ぼしたとき、信長はどんな気持ちだったんでしょうね。 ちなみにぼくは「歴女」という言葉は好きではなく、自分で書く文章…
信玄自身も最強クラスである上に、家臣にもパラメーターの高い名将ぞろいなのでゲームだと天下統一しやすい武田家ですが、現実はゲームほど単純ではないので利害調整がうまくいかなかったり、家督をめぐっての争いがつづいてしまったのが敗因でしょうか。
こうして振り返ってみると、武田家って親子間で家督継承をめぐってのクーデターが何度も起きてますよね。まあこの時代、それなりの規模の武家であればこうした跡目争いは珍しくもないのでしょうが。 また武田勝頼は過小評価されがちですが、彼が武田家の最大…
父・信虎をクーデターにより追放した晴信(信玄)ですが、基本的には父の戦略を継承していったように見えます。甲斐は地政学的に北にも南にも敵を抱えていたため、信玄は政略と戦略の両方を駆使して勢力の拡大に成功しますが、西上作戦の途中で病死します。 …
武田家の本拠として知られる躑躅ケ崎館を築き、城下町を整備したのが信玄の父、武田信虎です。 近年では甲府駅北口に武田信虎の銅像が建立されたり、映画『信虎』も公開されましたね。
武田信玄で知られる武田家は「新羅三郎以来」の名門ですが、甲斐の武田家以外に安芸と若狭にも武田家があったことは知っておきたいですね。 ゲームだとそれぞれ独立大名として選択できることも多いですし。