榎本秋の「江戸時代のお家騒動40選」
お家騒動、という言葉をご存知でしょうか。時代劇などでよく題材として登場するので聞いたことがある、という方も多いかもしれません。
言葉の意味を簡単にまとめると、「(特に江戸時代の大名家・諸藩において)一族内部の家督争いや、家臣団の主導権争い・派閥闘争が事件化したもの」ということになるでしょう。
有名なところでは各種フィクションの題材にもなった仙台藩の伊達騒動や、猫化け騒動という伝説を生んだ佐賀鍋島藩の鍋島騒動などがあります。
ほかにも徳川家康の孫にして御三家に続く家格を誇った大名が改易に追い込まれた越前松平家の越前騒動、名君として知られる上杉鷹山や細川重賢が改革を進める中で遭遇した藩内トラブルなど、興味深いケースは数多く存在します。
実は、このような内乱・内紛は別に江戸時代の大名家に絞らずとも歴史上数多く見ることができます。そもそも大名たちの先祖である戦国時代の戦国大名・戦国武将たちは、地域や勢力の主導権をめぐり、あるいは自らの領地を守るために激しく争っていたのですから!
本来の地方支配者である守護が、その補佐役であったはずの守護代や、地付きの小規模武士でしかなかった国人・土豪によって打ち倒される「下剋上」(武力によって主家を打ち倒し、取って代わること)は戦国時代にいくらでも見られた例です。
日本全体を治めていた室町幕府や、名目上はその上にいた朝廷がすっかり力を失って各地で争いが続いていた(そして、大名たちがほかの勢力を押さえ込む一番の近道は幕府や朝廷を担ぎ上げることだった)ことを考えれば、戦国時代とは巨大な「お家騒動」の時代だった、とさえ言えてしまえそうです。
とはいえ、やっぱり「御家騒動」というイメージで出てくるのは江戸時代。そこで、今回から始まる連載では、江戸時代に巻き起こったお家騒動から主要なものをピックアップして紹介します。
しかし漫然と紹介しても意味が薄いため、お家騒動事件を先に紹介した特徴をもとに9つに分けます。
①「江戸幕府=徳川家のお家騒動」というべき江戸時代初期の内紛・政争。
②仙台藩の伊達騒動。お家騒動の特徴を一通り備えたサンプルケースとして紹介する。
③織豊時代から江戸時代初期にかけて、「主家」が入れ替わったケースを紹介。
④大名権力の強化が図られ、お家騒動にならず収まったケース。
⑤大名権力の強化が図られるも失敗し、お家騒動化したケース。
⑥門閥重臣の存在が問題となり、激しい争いに発展したケース。
⑦中央政権である江戸幕府が藩の問題に介入したケース。
⑧藩内部の問題を解決するため、「押込め」が試みられたケース。
⑨成り上がりの改革派と譜代の保守派が対立したケース。
これらのケースそれぞれのお家騒動、すなわち事件を紹介します。
弘前藩・津軽家ではすでに紹介した船橋事件とは別に「津軽騒動(正保の変とも)」と呼ばれるお家騒動が起きています。藩主である信義排除の要因はいくつかあるそうですが、そのひとつに「石田三成の孫である」というのもあるとか。
加賀百万石で知られる大大名、前田家においてもお家騒動は起きています。6代藩主・吉徳に重用された大槻朝元は、その出世を妬まれ、吉徳の死後に追放されます。しかしそこで終わらないのがこの加賀騒動で、歌舞伎や浄瑠璃の演目として脚色されました。
江戸時代、破綻した藩財政の立て直しに豪商たちが尽力したケースも多々あります。この庄内藩における本間光丘もそのひとりです。光丘は藩の財政改革を進めるだけでなく、他藩である上杉鷹山の改革にも金銭や穀物を貸し与えることで貢献しています。
お家騒動に発展してもおかしくない状況ながら見事に改革を進めた名君に細川重賢がいます。「肥後の鳳凰」と称された彼が見事だったのは抜擢した在野の人材を最後まで信じて任せた点にありました。
江戸時代屈指の名君とされる上杉鷹山ですが、そんな彼にもお家騒動に巻き込まれた経験があります。しかし彼の場合は前藩主で養父の重定が改革を支持してくれたことで事なきを得ます。ケネディ元大統領が鷹山を尊敬していたのは知りませんでした。
現代においても状況が悪化すれば実力主義を重んじ、有能な人物に権限を与えて改革を試みますが、それは派閥争いの火種となり、江戸時代ではお家騒動に発展することとなりました。
幕末の薩摩藩で起きた「お由羅騒動」は「篤姫」や「西郷どん」などの大河ドラマでも扱われた有名なお家騒動です。祖父・重豪と似た息子を持ってしまった斉興の苦悩もわからなくもないという気がします。
二回つづけて薩摩藩におけるふたつのお家騒動を紹介します。まずは薩摩藩に大借金をつくった島津重豪とその息子・斉宣との対立から起きた「近思録崩れ」と呼ばれるお家騒動です。
押し込められる藩主が全員暗愚であったかというとそうでもありません。たとえば岡崎藩主・水野忠辰のケースでは、改革を望まない保守的な家臣たちによるサボタージュとクーデターであったと考えられます。
もっとも有名な「藩主押込め」の事例がこの福井藩主・松平忠直のケースかもしれません。大坂夏の陣では真田信繁らを討ち取るなどの武功を上げた忠直ですが、元和偃武の世では活躍の場がなかったのかもしれませんね。
家臣による藩主の強制的な隠居を「藩主押込め」と呼びます。戦国時代なら暗愚な主君だとこれ幸いと下剋上も起こせるのですが、江戸時代でそれをやると藩そのものが取り潰されてしまうため、現実的な解決手段として藩主を隠居させ、新藩主を擁立するというこ…
足利将軍家の血を受け継ぐ喜連川家はじっさいは5千石にもかかわらず10万石格の大名として扱われていました。しかし豊臣秀吉によって再興された家でもあり、そのことも改易の理由だったのかもしれませんね。
大大名・加藤家が改易された理由は明らかではないのですが、小倉藩主でのちに加藤家に代わって熊本藩主となる細川忠興が忠広を「狂気」と断じているなど、加藤家側にも危険人物と思われる(少なくともつけこまれる)フシがあったようです。
「津和野騒動」はかつての尼子氏旧臣たちと、新参の藩主直臣との対立が生んだお家騒動ですが、もとはといえば3歳の子どもを15歳と偽って報告した生母の光明院とそれを黙認した幕府のせいで起きたといえます。
マンガの主人公でおなじみの仙石秀久を祖とする出石藩・仙石家で起きた「仙石騒動」は重臣派閥が争い、シーソーゲームを繰り返しながら、最終的に老中首座を狙う水野忠邦に利用されるという悲しい結末を迎えます。
米沢騒動で上杉家が改易にならずにすんだのは藩主の義父が保科正之であったこと、義弟が高家旗本の吉良義央であったことが大きいとされます。この吉良義央こそ「赤穂事件」で有名な吉良上野介です。
松平光長の母は徳川秀忠の三女・勝姫で、将軍家の血を色濃く受け継いでいましたが、父・松平忠直から気性の激しさも受け継いだのか、越後騒動に至る前に福井藩の世継ぎに介入するなど問題を起こしています。お家騒動が起こるのも当然という感じですね。
お家騒動が勃発すると幕府が介入することとなります。訴えが幕府に持ち込まれた場合はもちろん、そうでない場合も幕府が介入することで江戸幕府による幕藩体制はより強固となっていきました。
お家騒動のパターンとして、いったんは藩政の外に追いやられた連中が復讐を果たして再び権力をにぎる、というものがありますね。ともあれ醜い泥仕合なので最終的な結末は改易や切腹になるのですが。
諏訪家といえば諏訪大社の最高位の神官(大祝 = おおほうり)をつとめた名家ですが、そこで起きたお家騒動が「二の丸騒動」です。藩政に関心のない藩主や病弱で政務が取れない藩主がつづくとダメですね。
筒井順慶の養子となり跡を継いだ筒井定次が改易されることとなった「筒井騒動」はたんに藩主と家臣の対立によって生じたお家騒動ではなく、幕府が大坂城包囲網を形成する上で邪魔だった筒井家を排除したかったと考えることもできるそうです。
浜田藩で起きた「古田騒動」はいまもその経緯が謎に包まれています。ただその原因は藩主・古田重恒に跡継ぎがいなかったことに端を発するので、やはり藩主にとってもっとも重要な仕事は子作りですね。
江戸時代、財政難を解消するために藩札を発行する藩はたくさんありました。当然こうした政策には失敗のリスクがあるのですが、最悪なのは失敗しても意地などが原因で廃止できないケースですね。
江戸で生まれ育った藩主が国家老たちよりも傅役を重用したために起きた船橋事件ですが、いつ幕府に訴えるべきかというタイミング選びも重要ですね。
生駒騒動は幼年の藩主のもとで家老が権力を握るという、わりとよくある構図なのですが、最後に藩主後見人・藤堂高次が下した喧嘩両成敗という裁定が失敗だったと思います。
朝鮮と幕府の板挟みになった対馬の宋氏がおこなった国書改竄事件をご存知ですか? 藩の家老が事の顛末を暴露したのですが、将軍・徳川家光の対応は意外なものでした。
この黒田騒動は私利私欲ではなく忠義から起こしたお家騒動という点でかなり特異なケースですが、栗山大膳のような忠臣がいたということが黒田家のすごさなのかもしれませんね。
古参と新参、ベテランと若手、よくある対立構造ではありますが、とくに藩主交代など代替わりのタイミングではその対立が顕在化しやすいようですね。
妬み嫉みが事件の引き金になることは現代でもよく見られますが、この桑名藩で起きた野村騒動はまったくの冤罪であるにもかかわらず一族までが死刑となってしまった悲劇です。
藩財政が苦しいときの対応として年貢を上げるか(増税)、武士の給与を減らすか(コストカット・リストラ)はどの藩も苦しい選択を迫られていますが、必ずしも増税反対が正義というわけでもないのでむずかしいですね。