榎本秋の「歴代征夷大将軍総覧」
そもそも「将軍」って?
本連載では古代から江戸時代まで、総計で48人を数える征夷大将軍それぞれの経歴や業績、ひととなり、そして彼らの治世下で起きた大きな事件について紹介していきます。
さて、現代日本で「将軍」といえば、それはまっさきに「征夷大将軍」の略語を意味します。この征夷大将軍は武家の棟梁であり、幕府の長であり、源氏の長者に他なりません。
実際のところ、将軍が実質的な権力を有していた時期は短く、側近や有力武家によって象徴・傀儡とされるのは珍しくありませんでじた。それでも武士政権の頂点であり、日本の統治者であり続けた存在。日本の外から見れば「日本国王」や「皇帝」。それが将軍なのです。
しかし「将軍」や「征夷大将軍」という言葉が本来持っていた意味はここまで紹介したものとは実は違う、というのはご存じでしょうか。
そもそも、将軍という言葉は古代中国において「軍隊を率いる君主」を示し、これが転じて「軍団の長」といった程度の意味になったのです。
古代日本には征夷大将軍以外にも「将軍」と名のつく役職があったし、南北朝動乱において南朝方は征夷大将軍を立てて東国で戦わせる一方、征西大将軍が九州で北朝方勢力と対峙していました。江戸幕府が消滅した近代以降の日本にも軍の役職・地位としての「将軍」があったのです。
日本における最も古い「将軍」は崇神天皇が設置した「四道将軍」(史料によって「三道将軍」とも)だとされます。ちなみに、ここでいう「道」は道路や街道ではなく地域を示す言葉なので、崇神天皇は4つの地域に将軍を配置した、ということです。
蛇足ですが、この道という言葉は現代でも北海道にその名を残しています。また、戦国時代にその名をはせた今川義元や徳川家康は「東海一の弓取り」と称されたが、ここでいう東海は「東海道」の意味で、東海道という道で一番ということではなく、東海道という地域で一番の武将(弓取りは武士の別名)を意味します。
「征夷大将軍」たち
このように、「軍団の長」であった「将軍」という役職のうち、なぜ征夷大将軍だけが特別な扱いを受けるようになり、ついには天皇と朝廷に取って代わる「政権の長」にまでなってしまったのでしょうか。
そして、それぞれの将軍たちはどのような生涯を送ったのでしょう。
古代の征夷大将軍は東北の部族「蝦夷」と対峙し、服属させるための存在でした。そのために本来天皇しか持ってはいけない軍権を付与されてはいましたが、それ以上の存在ではありませんでした。
鎌倉時代の征夷大将軍は、その先駆けとなる存在である源義仲を除き、鎌倉幕府の長のことを示しています。しかし、鎌倉幕府の初代将軍である源頼朝こそ強大な力を持ったリーダーではありましたが、以後の将軍たちは有力な武士たち――特に将軍を補佐する執権の職を独占した北条氏――による傀儡に過ぎませんでした。
頼朝の血筋も混乱の中に三代で絶えてしまい、以後は藤原摂家や天皇家から将軍を迎える体制が続きました。
その鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇および彼の築いた南朝も征夷大将軍を置きました。これは後醍醐天皇の「建武の新政」が幕府的なシステムを作ろうとした証拠ともされるが、長続きはしませんでした。
鎌倉幕府を倒すのに大きな役割を果たし、また後醍醐天皇にも反旗を翻して北朝を立てた足利尊氏を祖とするのが、室町幕府の征夷大将軍たちです。
鎌倉幕府のように血筋が絶えることこそなかったものの、彼らの力も必ずしも強いものではなく、「守護大名」と呼ばれる有力武家たちの思惑に振り回されることも多かったのです。
やがて室町幕府と征夷大将軍の権威が薄れる中で時代は戦国時代に突入し、室町幕府は消滅します。
乱れた天下を最後に治めたのは徳川家康であり、征夷大将軍となった彼の築いた江戸幕府は二百数十年にわたって日本を統治しました。江戸幕府の将軍たちは強権を振るったものから完全な傀儡までさまざまです。
中には八代将軍・徳川吉宗のような名君も輩出しましたが、社会体制の変化と海外列強の圧力には抗いきれず、ついに崩壊。時代は明治維新へと移り変わっていくのです……。
最後の征夷大将軍が徳川慶喜です。どれだけ優秀な将軍でも幕末の動乱期を乗り切ることはむずかしかったのかもしれません。 桂小五郎から「家康の再来」と評され、伊藤博文や渋沢栄一からも絶賛された人物ですが、西郷隆盛からは「決断力に欠ける」と見られて…
公武合体政策のために結婚した皇女和宮と徳川家茂のふたりはとても仲が良かったようです。家光の妹・和子と後水尾天皇の仲も良かったと伝わることから政治的な影響はともかく幕府の公武合体は、当人たちにとっては幸せだったみたいですね。
家慶の子である家定は「癇癖将軍」と呼ばれるほど、不安定な将軍で、幕末の混乱を乗り切れる器ではありませんでした。 料理が趣味で、平和な時代ならまたちがった評価だったのかもしれませんね。
徳川家慶は歴代将軍の中でもリーダーシップを発揮できなかった人ですが、この動乱期に将軍職についたこと自体がとても不運だったのでしょう。 江戸幕府にとって最大の危機といえるのが彼の時代に起きたペリー来航です。
子だくさんでオットセイ将軍の異名を持つ11代将軍・徳川家斉は、在職期間50年と歴代の征夷大将軍の中でも最長記録保持者でもあります。 また秀忠以来となる太政大臣への昇任など記録ずくめの将軍でした。
幼少の頃より期待された徳川家治でしたが、自身は将軍として幕政を主導することはなく、むしろ田沼意次に一任しています。本人が優秀だったがゆえに、有能な家臣に任せることを選んだのかもしれませんね。
吉宗の子である9代将軍・徳川家重は身体が弱く、また言語不明瞭だったそうです。しかし大岡忠光や田沼意次を発掘、抜擢するなど、知能は正常でむしろ聡明だったとも考えられます。 なお家重には女性説もあるようですね。
TVドラマ「暴れん坊将軍」のモデルとなった徳川吉宗の評価は名君とも、経済オンチとも言われますが、足高の制や大奥改革などのエピソードを見るかぎり、やはり有能な側面はあったのだろうと思います。
家宣の子として7代将軍に就任したのが徳川家継です。3歳での就任は歴代最年少でしたが、わずか8歳で亡くなってしまい、これによって徳川宗家が断絶し、御三家から新将軍を迎えることになります。
優秀さの片鱗を見せつつも、わずか数年で病没してしまったのが徳川家宣です。生真面目で礼儀正しい家宣は前将軍・綱吉の「生類憐みの令」を民のために廃止しつつも、自分は守ると綱吉の棺に話しかけたといいます。
徳川綱吉による「生類憐みの令」は犬などの動物だけでなく、人間もその対象でした。天下の悪法として綱吉の死後に廃止されましたが、捨て子や病人の保護などはその後も継続しているようにすべてが拒絶されたわけではなかったのです。
家光の晩年の子である家綱は、いわゆる大御所を置かず、若くして将軍に就任しています。彼の時代に起きた由井正雪の乱と明暦の大火というふたつの出来事は幕府の方針や江戸の町づくりに大きな影響を与えました。
「生まれながらの将軍」である3代・家光は唯一、将軍の正室の子として将軍職をついだ例でもあります。彼が将軍の時代は幕府の財力も豊富であったため、かなり強い権力を誇示することができました。
秀忠は「関ヶ原の戦い」での遅参を理由に評価が低くなりがちですが、江戸幕府が265年におよぶ長期政権として成立したのは秀忠の貢献が大きいのも事実です。
決して順風満帆とは言えなかった生い立ちですが、人質として、同盟相手として、家臣として、常に近くにいる有力者に必要とされたのが徳川家康です。 信長・秀吉はもちろん、幕府を開く際には室町幕府のしきたりを取り入れるなど、過去から多くのことを学んだ…
征夷大将軍をめぐる旅もついに江戸幕府へとたどり着きました。明日からは徳川家の歴代将軍を紹介していきますが、まずはざっくりと江戸時代について俯瞰してみましょう。
信長に救われ、信長と争った室町幕府最後の将軍が足利義昭です。挙兵のタイミングさえ見誤らなければ、信長をたおして将軍中心の政権樹立に成功していたかもしれませんが、それはそれで新たな群雄割拠の時代になっていた気もします。
13代将軍・足利義輝の暗殺後に三好氏によって擁立されたのが足利義栄です。彼は摂津で将軍に就任すると、一度も京に入ることのないまま病死した悲劇の将軍でもあります。
剣豪将軍としても知られる足利義輝は父とともに逃亡していた近江の地で将軍に就任します。三好長慶と対立したためなかなか京に入れなかった義輝ですが、幕府の権威を回復するため尽力したすぐれた将軍でした。
足利義澄の子として11代将軍に就任した足利義晴はその人生の大半を京の外で過ごしています。幼少期は播磨で育ち、将軍就任後も近江へ逃亡することが多く、畿内の権力争いに翻弄された将軍でした。
鎌倉・室町・江戸の武家政権において唯一、将軍職を再任したのが足利義稙ですが、名前も義材→義尹→義稙とたびたび改名しています。 (今回は第二期についての紹介です)
「明応の政変」によって擁立された11代将軍が足利義澄です。しかしその経緯からもわかるように擁立者である細川政元の傀儡だったために反目し合うようになり、最後は京を追われることになります。
近年、戦国時代のはじまりは「応仁の乱」ではなくその後に起きた「明応の政変」であると言われています。このクーデターによって将軍の座を追われたのが足利義材ですが、彼はただひとり二度将軍となった人物でもあります。
その誕生が「応仁の乱」の原因となったとも言われる足利義尚ですが、悲劇の人でもあります。権力を離さず干渉することが多い両親を避けるように、遠征先の近江から京に戻らず、そのまま25歳の若さで病没しました。
政治に無関心で趣味に生きたとされる足利義政ですが、じっさいには政治にも関わろうとしていたようです。しかし彼の歴史的な業績はなんといっても銀閣寺に代表される東山文化でしょうね。
暗殺された父の跡を継いで、9歳で将軍となった足利義勝でしたが、わずか8ヶ月で死去しました。赤痢による病死だったものの父・義教が多方面から恨みを買ったためと噂されたそうです。
仏門の身からくじ引きで将軍に選ばれ、「万人恐怖」と評されるほどの恐怖政治をおこない、そして最後は暗殺された、破茶滅茶な将軍が足利義教です。この頃から室町幕府は滅亡に向かいはじめていたのかもしれません。
17歳で将軍に就任したものの、わずか2年で病没した足利義量は父・義持により殺害された叔父・義嗣の呪いではないかという噂も立ったようです。子どもが若いうちに将軍職を譲り、父が大御所として政務をおこなうスタイルはのちに江戸幕府が踏襲していますね。
足利義満の嫡子である足利義持は父との折り合いが悪く、日明貿易をはじめとする政策を次々と転換させました。義持自身も父同様、隠居して権力をふるおうとしましたが、息子に先立たれてしまいます。
「一休さん」でおなじみの三代将軍・足利義満ですが、じっさいの義満はまさに豪腕と呼ぶにふさわしい将軍でした。守護大名たちの勢力を削ぎ、さらに南北朝の統一を果たすと、日明貿易で莫大な利益を上げました。