攻城団ブログ

日本の歴史をまるごと楽しむためのブログ。ここでしか読めない記事ばかりです。

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お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

榎本秋の「明智光秀と麒麟たち」

榎本秋先生によるNHK大河ドラマ「麒麟がくる」をより深く楽しむためのコラムです。

この連載は明智光秀とかかわりのあった同時代の人物に焦点をあてて、毎週ひとりずつ紹介していきます。それぞれが大なり小なり光秀の人生に影響を与えたわけですが、彼らを通じて明智光秀というひとりの武将の実像に迫っていければと思います。

明智光秀と榎本秋――あるいは麒麟は来たのか(「麒麟がくる」と過ごした一年を振り返り)

一年あまりの連載を振り返って、榎本先生にコメントをいただきました。大河ドラマ「麒麟がくる」そしてこの連載を楽しんでいただけましたか?

明智光秀と森蘭丸――あるいは本能寺の変という終わり

信長の小姓として「本能寺の変」で運命をともにした森乱丸ですが、障子を信長に閉めてくるように命じられた際に(信長に恥をかかせぬよう)閉まっていた障子をいったん開けてから、音を立てて閉めるなど、度を超えた忠実ぶりを発揮した逸話が残っています。

明智光秀と誠仁親王――あるいは「本能寺の変」の当事者

誠仁親王は正親町天皇の第一皇子です。信長が自らの居館としていた二条新御所を譲られ居住していたのですが、本能寺の変の際にはこの館に信忠が立て籠もったため、巻き込まれることになります。非常時とは言え、親王の邸宅に押し入っちゃえるほど織田家の権…

明智光秀と荒木村重――あるいは「織田を見限った男」たち?

明智光秀より早く、信長に謀反を起こしたのは松永久秀だけではありません。 摂津・有岡城の荒木村重もそのひとりです。光秀の長女(お岸)が村重の息子・村次に嫁いでいたので、以前光秀が寝込んだ際に駆けつけたときも「荒木の父上が許してくれた」と話して…

明智光秀と赤井直正――あるいは光秀の前に立ち塞がった壁

赤井直正は光秀の丹波攻略に抵抗した黒井城の城主です。もともと丹波の国衆は足利将軍家に仕えていたため義昭追放に連動して反織田になったようですが、直正がこのとき病死しなければ歴史は変わっていたかもしれませんね(光秀に暗殺された説もあるとか)。

明智光秀と細川忠興――あるいは太平のための裏切り

信長の命令で、たま(ガラシャ)の夫となった細川忠興は父・細川藤孝や義父・明智光秀に負けず劣らず、文武両道に秀でた人物でした。

明智光秀と斎藤利三――あるいは運命共同体

歴史的には「春日局の父」として有名な斎藤利三ですが、生年が不明な点や主君を比較的近いところで変えている点、そして中途組なのになぜ主君に重用された点など、光秀との共通点が多い人物です。

明智光秀とたま(ガラシャ)――あるいは父譲りの激動の運命

細川ガラシャという名前のほうが有名ですが、明智光秀の娘・たまはあるいは父以上に波乱万丈な人生を送った人です。一般には三女とされることが多いのですが、このドラマでは次女の設定となっています。

明智光秀と朝倉景鏡――あるいは誰のための裏切り?

戦国時代に主君を裏切ることはそう珍しいことではなく、また織田信長は裏切り行為に寛容な大名でした。 もちろん朝倉景鏡が朝倉義景を裏切った理由がそのまま明智光秀が謀反を起こした理由と重なるわけではないのですが、腹心であり現場指揮官でもあったふた…

明智光秀と三条西実澄――あるいは文化と権威の意味

武家同様、公家の分家も多々あり、三条西家は三条家の分家の分家です。この三条西実澄は大納言に任じられた公卿ですが、むしろ細川藤孝に古今伝授を授けた人として有名です。

明智光秀と武田信玄――あるいは「信長にとっての脅威」

信長や家康をドラマにする場合、武田信玄は強力なボスキャラとして登場することが多いのですが、信長と信玄は直接戦ってはいないのです(長篠の合戦は勝頼との対決)。ただ手紙では互いを非難しており、有名な「第六天魔王」の言葉も信玄の売り言葉に信長が…

明智光秀と明智光慶――あるいは運命をともにした親子

生まれたばかりの赤ん坊・十五郎はのちに明智光慶と名乗るのですが、初陣の記録もなく史料から実在は確認されるものの、謎の多い人物です。バナーにも使っている有名な光秀の肖像画を所蔵する岸和田市の本徳寺を開山した僧が光慶という説もあるとか。

明智光秀と覚恕法親王――あるいは比叡山焼討ちの真実

織田信長により比叡山焼き討ちに遭った天台座主・覚恕は正親町天皇の弟です。中立の立場を守らず朝倉・浅井連合軍を比叡山にかくまったことが理由とのことですが、なぜ比叡山は信長に敵対したのか、そこには複雑な事情がありそうです。

明智光秀と筒井順慶ーーあるいは日和見は真実か否か

筒井順慶といえば「洞ヶ峠」の故事として知られていますが、じっさいには光秀が順慶を威嚇、牽制するために洞ヶ峠に布陣したという説もあるそうです。ともあれ京に近い大和にいながら積極的に行動しなかったことは事実で、日和見主義の代名詞となってしまい…

明智光秀と浅井長政ーーあるいは「不安」が背中を押したのか?

浅井長政の裏切りの一報が入ったとき、信長は最初これを信じなかったそうですが、明智光秀のときは「是非に及ばず」と語ったと伝わっており、このへんにふたりに対する信長の評価や思い入れが表れているのかもしれませんね。

明智光秀と正親町天皇ーーあるいは信長への恨みはあったのか?

正親町天皇は後奈良天皇の子で、後陽成天皇の祖父にあたります。幼い頃の伊呂波太夫が温石をもらった相手です。この当時の朝廷はとにかく困窮しており、即位の礼にかかる費用も大名からの献納に頼るしかなかったそうです。正親町天皇の場合は毛利元就がお金…

明智光秀と摂津晴門ーーあるいは能吏同士

摂津晴門がつとめた政所執事というのはもともと伊勢氏が世襲していたのですが、足利義輝が三好長慶と結んで伊勢貞孝を更迭して起用したのが晴門です。財政と領地に関する訴訟を扱う政所の長官として絶大な権力を持っていたため、どうしても腐敗の温床になり…

明智光秀と三好三人衆ーーあるいは畿内混乱の原因?

三好長慶の死後、三好家の実権を握った三好長逸ら三人衆は足利義輝を殺害しただけでなく、本國寺を仮御所としていた義昭の殺害も計画します。それを救ったのが明智光秀でした。また信長はこれを機に義昭のために二条城を築城しました。

明智光秀と今井宗久ーーあるいは畿内の実力者たち

茶人であり、また豪商でもあった今井宗久は信長からはさまざまな特権を与えられ、銀山支配や鉄砲製造を通じて天下統一事業を支えました。おそらく光秀ともさまざまなやり取りがあったと思うのですが、記録には残っていないようです。

明智光秀と足利義栄ーーあるいは「ライバル未満の存在」であっても

戦国時代末期の室町幕府将軍というと足利義輝・義昭の兄弟が思い浮かびますが、その間に三好家に擁立された14代・義栄がいることはあまり知られてないですね。彼の父親の代からの因縁も含めて知ると、当時の将軍家内の対立構造がよく理解できると思います。

明智光秀と足利義昭――あるいは選ばなかった主君

将軍家にかぎらず、兄弟間で世継ぎの座を争うことを避けるために嫡男以外を仏門にいれるということはよくある話でしたが、義昭については還俗してほんとうに幸せだったのかわからないですね。

明智光秀と斎藤龍興ーーあるいは越前でニアミス?

それほど有名ではないものの、斎藤龍興という人はじつに興味深い人物です。信長に負け続けたものの、これだけ長きにわたって反抗し続けたのは見事です。

明智光秀と山崎吉家ーーあるいは、越前時代に縁はありやなしや

朝倉家の家老・山崎吉家についての史料はそれほど残っていないのですが、武将として、外交官としてじつに有能な人材だったようです。越前時代の光秀と関係があったかはわからないのですが、ふたりの関係をうかがわせるようなエピソードがありました。

明智光秀と近衛前久――あるいは「本能寺の変朝廷陰謀説」?

関白というとのちに豊臣秀吉がついた公家の最高位ですが、「麒麟がくる」の時代に関白職についていたのは近衛前久でした。破天荒とも異端児とも称される前久ですが、戦国時代を生き抜くにはこのくらい公家離れしていないとむずかしかったとも言えますね。

琉球も、蝦夷も、まだ激動の渦の外にあった……

歴史はどこか一か所だけで進行するものではなく、各地で同時に起こり、また相互に影響を与え合うものであることがこの連載を通じてわかったと思います。最終回となる今回は当時まだ日本の外にあった琉球と蝦夷地についてのぞいてみましょう。

土佐の風雲児、長宗我部国親が活躍した時期はちょうど「麒麟がくる」前半と重なる!

近年「本能寺の変」の原因のひとつとして挙げられることの多い「四国政策説」ですが、長宗我部元親と織田信長のパイプ役を担っていたのが明智光秀で、信長の方針転換により面目を失ったため(また出世争いから脱落したと自覚したため)謀反を起こしたとされ…

「麒麟がくる」物語序盤、中国地方は不穏な気配が高まりつつあった

明智光秀といえば謀反、そして下剋上ですが、「本能寺の変」よりも30年ほど前に起きたのが「大寧寺の変」と呼ばれる陶晴賢による謀反です。その後、晴賢は毛利元就に討たれるのですが、下剋上はなかなかむずかしいですね。

斎藤道三と高政の関係が怪しくなっていた頃、信濃は武田信玄の手に落ちようとしていた

明智光秀が斎藤家に仕えていた頃、美濃から東にある信濃・甲斐では武田信玄の勢力が拡大しつつありました。信玄が越後の上杉謙信と戦った「川中島の戦い」のうち山本勘助らが討死したのは四度目(=永禄4年)で、これは「桶狭間の戦い(永禄3年)」の翌年に…

斎藤道三と高政の親子がギスギスしていた頃、関東では北条家が圧倒的優位に立っていた

明智光秀が主君・斎藤道三と学友・高政の間で板挟みになっていた頃、関東地方では北条氏の勢力が一気に拡大しようとしていました。

明智光秀が京都から東海各地をウロウロしていた頃、東北では内戦が終わろうとしていた

明智光秀が美濃にいた頃、東北地方では伊達家の内乱がちょうど収束した頃でした。

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