攻城団ブログ

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榎本秋の「戦国軍師入門」

この連載は『戦国軍師入門』(幻冬舎新書)をベースに、ウェブ連載用に一部修正したものです。

軍師の活躍とはどのようなものだったのでしょうか?
多数を少数で破った派手な話から、地道な努力の積み重ねに始まる地味な話まで、じつに多くの逸話が戦国時代に残っています。
そんな中、ふたりの名将とそれに従う2ふたりの名軍師が知略を戦わせた、実にド派手な合戦の物語があるのをご存知でしょうか。それは「第4次川中島の戦い」――甲斐の名将・武田信玄と越後の軍神・上杉謙信が信濃を巡って川中島で繰り返した戦いの四度日、さまざまな伝説で彩られた合戦のことです。

この戦いにおいて謙信は妻女山に陣取り、対する信玄は海津城に兵を置きました。そして、まず動いたのは信玄でした。軍師・山本勘助が提案した「啄木鳥(きつつき)作戦」により、別働隊を派遣して妻女山の上杉軍を山の下に攻め落とし、そこを自分の率いる本隊で迎え撃とうと企んだのです。
ところが、霧の立ちこめる中、待ちかまえていた武田本隊の前に現れたのは、準備万端の上杉軍でした。なんと謙信の軍師・宇佐美駿河守は勘助の作戦を完全に読み切り、先手を打って兵力を分割した武田軍を各個撃破しようと企んだのです。

勢いに乗る上杉軍は武田軍を圧倒します。
とくに謙信は自ら馬を駆って武田本陣に攻め込み、信玄と一騎打ちまで演じてみせましたが、そこに援軍が到着します。作戦を逆手に取られたことに気付いた勘助たち別働隊が急ぎ妻女山を経由して駆け付けたのです。
さて、戦いの決着はいかに――。

この「第4次川中島の合戦」における流れは信憑性が乏しく、両軍の軍師もじつは実在が危ぶまれているのですが、大河ドラマなどでも取り上げられたため、ご存知の方も多いと思います。
では、彼ら軍師たちの活躍は他にどのようなものがあったのでしょうか?
そもそも軍師とはいったいどんな存在で、後世の私たちが持つイメージは本当に正しいのでしょうか?

軍師たちが活躍した戦国時代は、日本の各地で大小さまざまな勢力争いが起きていた戦乱の時代です。
鎌倉時代以前から力を持っていた公家や寺社という旧勢力と、鎌倉時代・室町時代と武家政権の時代を経るにしたがって力を蓄えてきた武士が激突し、最終的に武家による絶対的な支配政権である江戸幕府が誕生したのがこの時代でした。だから、武士や公家・僧侶だけでなく、さまざまな身分の者たちが活躍して、とても魅力的な時代です。
そんな戦国時代を「軍師」というキーワードで読み解いていきましょう。

現代の資本主義社会が「武力を用いるかどうか」という点を抜かすと、じっさいに行われていることは戦国時代にとても近いと言ったら驚かれますか?
でも、会社の売り上げを増やし、コストカットと組織のシステム作りを行い、拠点を増やしていくというのは、戦国大名が、城(拠点)を増やし、経済活動を行い、家臣団を整備していくことと、本質的には同じことなのです。

また、大名は企業グループの総帥、というように見ることもできます。その下に大小さまざまな企業が傘下として加わっている様は、大名の下に有力な豪族や将が従っているのとよく似ています。
以上のようなことを視野に入れつつ、戦国時代の勢力構造の中で軍師たちがどのように生きて、そして活躍したのかを見ていくことにしましょう。

本連載は全体で3つの内容を追っていきます。
まずは、そもそも軍師とは何者か? そして、戦国時代の勢力とはどうなりたっていたのか? ということを説明します。
次に、戦国時代の花形であり、勢力拡張の主要な手段だった合戦の中でも、とくに軍師が主導的な役割を果たしたものを紹介します。
最後に、実際にどんな軍師がいて、彼らはどんな活躍をして、どんな生涯をすごしたのかの実例を見ていきましょう。

【戦国軍師入門】本多正信――武断派に嫌われながら幕府を守った、家康の懐刀

本多正信の「権あるものは禄少なく、禄あるものは権少なく」という考え方は江戸時代の幕藩体制そのもので、石高の多い外様大名は国政に参加することを許さず、また老中はじめ権力の中枢にいる者たちは井伊家以外は20万石未満でした。国政のシステムの基盤を…

【戦国軍師入門】直江兼続――主家存続に生涯を捧げた文武兼備の智将

4万石の半分を与えられた島左近もすごいですが、120万石のうち30万石を与えられた直江兼続はさらにすごいですね。ちなみに「直江状」の真贋論争ですが、不自然な部分がある一方で当事者しか知りえない事実が書かれていたりして、いまなお決着がついていませ…

【戦国軍師入門】島勝猛(左近)――不死伝説まで生まれた悲劇の名将

京都・立本寺にある島清興の墓には「寛永9年没」とあり、島左近が江戸時代を僧侶として生きたと伝わっています。対馬や陸前高田にも墓があるそうで、ほかにも関ヶ原の戦いで生き延びた伝説が全国各地に残っているそうです。

【戦国軍師入門】片倉景綱――独眼竜の右目をまっとうした生涯

どうしても西郷輝彦さんの片倉小十郎景綱が浮かびますね。ちなみに嫡男・重綱(のちに重長)も父に劣らぬ智勇兼備の名将で「鬼の小十郎」と称され、さらに重長の子・景長もまた小十郎を名乗ったそうです。伊達家において「片倉小十郎」の名前は忠臣の鑑でし…

【戦国軍師入門】黒田官兵衛――有能ゆえに疎まれた不遇の名軍師

秀吉に対する「御運が開かれる機会が参りましたな」のエピソードは幕末に書かれた『名将言行録』が出典なのでかなりあやしいと思います。秀吉が官兵衛を遠ざけた理由があるとしたら、彼がキリシタンだったことじゃないかなと。でも秀吉に恐れられたというこ…

【戦国軍師入門】立花道雪――輿で戦場を駆けめぐった、雷神の生まれ変わり

立花道雪には「雷切」はじめさまざまなエピソードが残っています。本文で紹介した主君を諌めるために京から呼んだ踊り子に踊らせたのが現代にも残っていて、それが大分市鶴崎の無形民俗文化財「鶴崎踊り」と言われています。

【戦国軍師入門】角隈石宗――秘伝を火中に投じて散った軍配者の無念

角隈石宗の名前を知っているとちょっとだけ通っぽいですよね。いわゆる軍配者の典型例みたいな人物ですが、個人的に興味深いのは彼の最後となった「耳川の戦い」において忠告を無視されたにもかかわらず、出陣してるんですよね。負けるとわかっていても、死…

【戦国軍師入門】鍋島直茂――野心なくして遂げた下克上

龍造寺隆信と鍋島直茂の関係は上杉景勝と直江兼続に似ているように思うのですが、仕えた主君の性格が真逆だとまったくちがう結果になるのだなと。どっちの人生が幸せかはわかりませんけどね。

【戦国軍師入門】竹中半兵衛――諸葛亮にも例えられた知性派策士

竹中半兵衛は諸葛亮孔明のようなイメージで語られていますが、そのほとんどは孔明に寄せた創作エピソードによるものなのでじっさいにどこまで活躍したのかは不明です。ただ偶像であれ、多くの方にいまなお愛されている武将であることはまちがいなく、三木市…

【戦国軍師入門】蜂須賀正勝――「野盗の親分」、実は外交折衝の達人

有能な腹心がたくさんいたから秀吉は天下が取れたのでしょうが、その中でも蜂須賀正勝は渋くてぼくは好きです。弟の秀長をのぞけばもっとも長い付き合いかもしれないですね。

【戦国軍師入門】宇佐美定満――軍神・謙信に兵法を授けた謎の軍師

江戸時代から見た戦国時代というと、令和から見る昭和くらいの時間差でしかないのですが、それでも架空の人物が生まれ、フィクションによる物語がつくられていくというのはおもしろいですね(おもしろいと同時に後世から見れば迷惑な話でもあるのですが)。

【戦国軍師入門】甲斐宗運――島津も恐れた非情の忠臣

大国にはさまれたいわゆる境界大名にも名軍師はいて、その代表的なひとりが甲斐宗運です。 彼は太原雪斎のように内政・軍事両面で阿蘇家を支えましたが、雪斎同様ひとりがすべてを取り仕切るリスクは大きく、宗運の死後すぐに阿蘇家は滅亡することになります…

【戦国軍師入門】朝倉教景――犬畜生と蔑まれても勝ちが大事

伊達政宗しかり戦国大名の家では先祖と同じ名前をつけることは珍しくないのですが、朝倉家は孝景も教景も複数います。教景にいたっては判明しているだけで5人が名乗っており、しかも3人は歴代当主です。襲名に近いのでしょうか。 なお近年の研究によると「朝…

【戦国軍師入門】真田幸隆――謀略に長けた「攻め弾正」

活躍だけ見れば、息子の昌幸、孫の幸村よりも華々しいのが真田幸隆です。調略に長け、多くの城を攻め落とした点では羽柴秀吉に近いイメージがあります。

【戦国軍師入門】山本勘助――すべてが謎に満ちたオカルト軍師

NHK大河ドラマの主人公にもなり、またほかの作品にも多数登場していることからてっきり実在がたしかな軍師だと思っていた方も多いでしょうが(ぼくも最近までそうでした)いまなお山本勘助が実在していたか、実在していたとして名軍師だったのかはよくわかっ…

【戦国軍師入門】太原雪斎――家康にも影響を与えた、今川家の軍師僧

逸話で聞く太原雪斎はほんとうにスーパーマンですよね。外交面ではタフネゴシエーターであり、軍事面では戦略家と八面六臂の活躍を見せつつ、さらに教育者でもあるのですからほんとうにすごい。

【戦国軍師入門】大坂の陣――天下の大坂城を裸にした謀略

真田幸村ははたして軍師なのか――という問いは大河ドラマ「真田丸」をご覧になった方にとっても興味深いのではないでしょうか。じっさいには軍師的な役割を任せてもらえなかったわけで、父親である真田昌幸の影響が強いのかもしれませんね。

【戦国軍師入門】石垣原の戦い――黒田官兵衛、最後の賭け

大友義統が杵築城を攻めたとき、城を守ったのが細川家の家老、松井康之でした。黒田如水は救援に駆けつけ石垣原の戦いに勝利すると、その翌日からまた進撃を開始して豊後国を平定するのですが、ほんとうに天下を狙っていたのかは不明で、おそらくは俗説のよ…

【戦国軍師入門】関ヶ原の合戦――100人を倒すより1000人に裏切らせる

関ヶ原の戦いは各大名家お抱えの名軍師たちの競演でもありました。またその軍師たちを指揮して自軍に有利な状況をつくった徳川家康の戦略家としての凄みも実感します。 ちなみにメッケル少佐が「西軍の勝ち」と言ったというのは司馬遼太郎の話らしいので、お…

【戦国軍師入門】人取橋の合戦――槍の功でも主君を救った軍師

当時は写真があるわけではないので伊達政宗の顔を知らない兵が大半でしょうけどそんなに簡単にだまされるのでしょうか。片倉小十郎は政宗より10歳も年上なので、違和感はあると思うんですけどね。 あと人取橋の合戦というと、いかりや長介さんの鬼庭左月斎を…

【戦国軍師入門】秀吉の四国征伐――官兵衛の策略でスピード勝利

秀吉による四国征伐において大活躍したのが黒田官兵衛でした。彼は大軍である利点を最大に生かして、兵力をむやみに分散せず、攻めるべき城も選んで、わずか3か月ほどで長宗我部元親を降伏させることに成功します。

【戦国軍師入門】沖田畷の戦い――功績甚大の軍師を疎んじた結末

軍師の助言を聞き入れなかったから負けたというのはあくまでも結果論でしかないのですが(無視して勝った例もあるわけで)おごった当主が周囲から愛想を尽かされ身を滅ぼすのは世の常ですね。

【戦国軍師入門】今山の戦い――奇襲を成功させ、会心の勝利

当時、鍋島直茂はまだ「信生」を名乗っていましたが、この勝利を記念して信生は鍋島家の家紋を剣花菱から大友家の杏葉に替えたそうです。なおこの戦い後も大友氏が軍勢動員の触れを隆信に送るなど、従属関係は完全に解消されることなく一部維持されたようで…

【戦国軍師入門】秀吉の中国攻め――「両兵衛」による3つの城攻め

黒田官兵衛が信長に臣従するために謁見したのが1575年(天正3年)7月、その4年後の1579年(天正7年)6月13日に竹中半兵衛は陣中で亡くなってます。しかしこの間の1578年(天正6年)10月から一年間、官兵衛は有岡城に幽閉されていたため、たしかにふたりが秀…

【戦国軍師入門】耳川の戦い――受け入れられなかった主君への進言

角隈石宗は通好みの戦国武将ですよね。軍師というより、本来の「軍配者」の代表とも言えますが、この耳川の戦いに出陣する際に死を覚悟して自身の書いた兵法書をすべて焼き払ってしまったのがもったいないです。

【戦国軍師入門】稲葉山城乗っ取り――軍師・半兵衛、鮮やかなデビュー

竹中半兵衛による稲葉山城乗っ取りのエピソードが事実なら、なぜ信長は2千程度しか守備兵がいないこのチャンスに軍事行動をおこさなかったんでしょうね。この半年間は美濃攻めの好機だったと思うのですが。

【戦国軍師入門】北九州をめぐる戦い――小早川隆景・立花道雪の激突

なぜ毛利氏が京のある東ではなく西へ侵攻したかというと博多がほしかったようです。 小早川隆景と立花道雪の対決という戦国ファンなら心躍るカードですが、ふたりは20歳ほど離れています。もっとも毛利元就は道雪よりさらに16歳ほど上なのですが。 あと多々…

【戦国軍師入門】厳島の合戦――策謀の限りを尽くした天才・毛利元就

厳島合戦の勝利は結果を知っているとそう難しくないように見えますが、毛利元就が打った数々の布石はまさに戦略家ですよね。なお宮尾城はこの戦いのために築かれたのではなく、それ以前から大内氏の城として存在していたようです。

【戦国軍師入門】九頭竜川大会戦――30倍の勢力差を逆転

朝倉宗滴の名で知られる朝倉教景は一族の軍師として、各地を転戦し武名を轟かせていました。

【戦国軍師入門】安祥城の戦い――軍師僧・太原雪斎の交渉術

名軍師・太原雪斎のエピソードは多々ありますが、軍事と外交の両面での才能が際立っているのがこの竹千代を取り戻した一連の軍事行動ですね。

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