榎本秋の「戦国時代の境界大名」
本連載のテーマは戦国時代の日本で活躍した「境界大名」です。彼らがどのような状況にあったか、どのような結末をたどったかを、16の大名家の実例を紹介することで見ていただきます。
といっても、この言葉は著者の造語なので、読者の皆さんには何が何だかわからないことでしょう。そこで、まずは「境界大名」とは何か、を見ていくことにします。
境界とは、土地や国の境のことです。
戦国乱世、日本各地に有力大名が立ちました。その出自はさまざまです。伊達・今川・武田・島津のように元々名門の守護大名家であり、一族の内紛を治めて戦国大名化したもの。上杉や織田のように守護代(守護の補佐)やその一族から下剋上で台頭したもの。そして、毛利や北条のように国人(あるいは土豪、豪族とも。小~中規模勢力武士)や大名家の家臣、またそれに近い立場からやはり下剋上で成り上がったものです。
このような有力な大名が各地域に複数立つと、それぞれの勢力範囲が近接し、あるいは重なる地域が生まれます。すなわち、「境界」ですね。そこには独自の勢力を持つ国人が割拠し、時に隣接する大名Aに臣従したかと思えば、別の大名Bを盟主と仰ぐ。このように情勢の変化に合わせて立場を変え、生き残りを模索するわけです。
境界大名から成り上がった代表例としては、中国の覇者・毛利氏の名前がまず挙がります。もともと、毛利氏は安芸の小国人にすぎず、中国地方の二大勢力である大内・尼子の両氏に圧迫されていました。そのなかで時に大内につき、時に尼子につきながら自家の生き残りを図るのが毛利氏のスタンスでした。尼子の大軍に本拠地を包囲され、絶体絶命の危機に陥りながら、大内の援軍に救われたこともあります。
多くの境界大名はこのような立ち振る舞いを続けながら自家の勢力を保存することに汲々とします。やがてその立ち回りに限界がくれば攻め滅ぼされるか、あるいはどこか一つの大名の支配下に組み込まれていくのが普通です。
しかし、毛利氏は違いました。天下に名高き謀将毛利元就は、盟主たる大内氏の内紛に乗じてこれを滅ぼし、返す刀で尼子氏も滅ぼして、ついに中国を統一してしまったのです。ここまでの鮮やかな成り上がりは、下剋上の戦国時代といっても他に例は多くありません。
ともあれ、多くの境界大名は戦乱の世の中で攻め滅ぼされ、あるいは大名家を構成する家臣団の一つとなり、その独立性を失っていくことになります。また、かろうじて独立を保っていた境界大名も、時代の流れには勝てません。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のいわゆる三英傑が現れることにより、境界大名たちに独立を許した戦国時代という一時代そのものが終わっていくからです。毛利氏だって秀吉に従い、家康に圧倒されるのですから。
そもそもなぜ境界が生まれるかといえば、各地に群雄が割拠し、その勢力圏が隣接するからです。天下に覇を唱えるような強者が現れれば、境界はなくなってしまいます。秀吉の天下統一までを生き延びた境界大名たちの多くは豊臣政権の前に膝を屈し、臣従を誓ったのです。そして関ヶ原の戦いを経て世が太平の江戸時代へ入っていくと、彼らは徳川家に仕える近世大名となります。もちろん、すでに境界大名的性質は完全に失っているわけです。
ここまでに紹介したのはあくまで概説にすぎない。実際の境界大名たちはそれぞれに性質が違う事情を背負っており、結末も多様です。
そのなかでも、本連載で紹介しているのは江戸時代まで生き延びて近世大名となりおおせたものたちばかりです。彼らの歴史をたどることで、激動の時代に生き延びるということがどういうものなのかに、触れていただければ幸いです。
大和国における二大勢力に挟まれた柳生氏は境界大名と呼ぶにはあまりに少勢力ですが、徳川家康から秀忠、家光と三代にわたり重用された柳生宗矩のときに大和柳生藩1万2500石の大名にまで出世しています。 剣豪と呼ばれた人物の中で大名にまで出世したのは宗…
松浦党とも呼ばれた海賊は戦国大名・松浦氏となっていきます。実利主義的だった松浦氏はほかのキリシタン大名と異なり、キリスト教に興味はなく南蛮貿易の旨味だけを求めたのですが、これにより領内の仏教勢力との対立が生じてしまいました。
宋氏はいわば日本と朝鮮の境界大名でした。とくに秀吉から無理難題を突きつけられた際は国書を改ざんしてまで関係を取り繕おうとしたのですが、のちにそのことが露見して対馬藩は最大の危機を迎えます。
信濃守護をつとめた名門・小笠原家ですが、武田信玄によって所領を奪われると各地を転々として再興を目指します。「天正壬午の乱」の混乱期に徳川家の支援を受けて旧領を奪還するのですが、その後も紆余曲折があったようです。
伊東氏は大友氏と島津氏に挟まれた典型的な境界大名でした。島津氏に攻められ一時は領土を失っていましたが、秀吉に仕えることで旧領の回復に成功します。しかし幕末では再び島津氏の圧力を受けて新政府側につきました。
織田氏と武田氏にはさまれた境界大名・遠山氏でしたが、宗家が滅んだのちは分家である苗木遠山氏が今度は信長の後継者となった秀吉と家康の間でむずかしい対応を迫られます。結果として居城である苗木城を失った遠山氏ですが、関ヶ原の戦いにおいて居城を奪…
日本初のキリシタン大名・大村純忠はもとは有馬氏から送り込まれた養子でしたが、有馬氏を見限って龍造寺氏に降伏するなど独立した道を歩むことになります。長崎の発展は大村氏が境界大名だったことにも大きく関係しているんですね。
有馬氏は島津氏や龍造寺氏にはさまれた境界大名というだけでなく、日本とポルトガルとの境界にも立っていた大名でした。岡本大八事件による失脚は晴信のミスですが、旧領を取り戻したいという彼の動機にこの時代の武家の心理が表れているようにも思います。
奥平氏は作手地方の国衆でしたが、まさに境界大名らしくその時々の情勢を見極めて、今川氏と武田氏、その後は徳川氏と従属先を変えて生き残りました。 武田軍から長篠城を守り抜き、織田信長から偏諱を受けた信昌は家康の娘婿でもあり、京都所司代をつとめる…
家康の生母である於大の方の実家である水野家は知多半島を本拠とする国衆でした。松平氏同様、今川氏と織田氏の間で戦国時代を生き抜き、江戸時代には福山10万石の大大名にまで出世しています。
相良氏は戦国時代、江戸時代を通じてずっと父祖伝来の地である人吉を支配しつづけた稀有な大名家です。島津氏や大友氏などの圧力を受けながらも、秀吉の九州征伐で従属関係がリセットされるなど幸運にも恵まれ、幕末まで生き残りました。
相馬氏は鎌倉時代からつづく武家でありながら、周囲を伊達氏、蘆名氏、佐竹氏と大大名に囲まれており、まさに境界大名として生き残りを図らなければなりませんでした。 そんな相馬氏が千年もの間、相馬野馬追をつづけてきたのは戦国大名としての意地かもしれ…
大河ドラマ『真田丸』で多くの方が真田家の戦国時代の立ち回りをご覧になったと思いますが、いわゆる「天正壬午の乱」の際に次々と臣従先を変える昌幸の行動は境界大名らしさが強調されていましたね。 「表裏比興の者」と評された彼の判断がなければ真田家は…
諏訪大社の神官だった諏訪氏は武家としても勢力を伸ばし、武田信玄の跡を継いだ勝頼を輩出します。そのまま武田氏とともに滅亡するかと思いきや、江戸時代まで大名家として生き残るんですよね。
亀井氏はもともと尼子氏の重臣でしたが、山陰の境界大名のひとつ毛利氏によって主家ともども滅亡させられます。茲矩を祖とする近世大名・亀井氏はその後、尼子再興軍とともに誕生しました。
大河ドラマ「おんな城主 直虎」でも描かれたとおり、井伊家は井伊谷を本拠とする小さな国衆でしたが、のちに彦根藩35万石という最大の譜代大名にまで出世しました。