榎本秋の「戦国合戦こぼれ話」
榎本秋先生による戦国時代のさまざまな合戦にまつわるエピソードを紹介するコラムです。
この連載は戦国時代に各地で起きた合戦を紹介します。数多くの戦国武将たちが己の威信と命運をかけてぶつかった数々の合戦には後世に語り継がれるさまざまな逸話があります。
また合戦に勝つためには事前の根回しなど現代社会にも通じる、勝者のテクニックがあります。そうしたノウハウについても紹介していただきます。
「笹の才蔵」の異名を持つ可児吉長ですが、笹の葉を口に含ませるのは、酒(ささ)を最後の手向けとして飲ませるという意味もあるとか。
井伊直政が娘婿の松平忠吉を世継ぎにするために仕掛けたとされる先陣争いですが、当日は霧に包まれていたため起こった偶発的な遭遇戦という説もあります。
戦国最強との呼び声も高い本多忠勝は武田軍から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と褒められたことで知られていますが、信長からも「花も実も兼ね備えた武将である」と称賛されました。
一騎打ちは創作でしょうけど、1561年(永禄4年)に起きた第四次合戦は信玄の弟の武田信繁や山本勘助などが討死しており、武田本陣も壊滅寸前だったようですね。
戦国時代には「死して名を残す(さらに家も残す)」武将がたくさんいましたが、その代表的なひとりが鳥居強右衛門ですね。
本多忠勝の娘である小松姫(稲姫)は真田信之の正室として嫁ぎました。いわゆる政略結婚ではありますが、夫婦仲はとてもよかったようです。
加藤清正は猛将にして智将、さらに築城の名手とじつはかなりハイスペックな戦国武将ですよね。
おそらくマンガの影響で通称の前田慶次(慶次郎)の名前のほうが有名になった武将ですね。
「槍の又左」と呼ばれた前田利家は五大老から加賀百万石の藩主となるなど、エリート街道を駆け抜けたように見えて若い頃はいろいろあったようです。
「関ヶ原の戦い」においてなぜ大谷吉継は三成に味方したんでしょうね。友情や忠誠心といった美談で語られるだけなのか気になります。
ガラシャはもともと気性の激しい女性だったそうですが、キリスト教に入信してからは謙虚でおだやかな性格になったそうですね。最後は家臣に殺させたとも、自ら胸を刺したともいわれていますが、この一連の騒動は石田三成の失策のひとつかもしれません。
人間の命はすべて平等ではなく、ひとりの将の命で数百数千の城兵の命を救うという話は戦国時代にはたくさんありましたね。その代表的なケースが備中高松城主の清水宗治です。
城郭建築の第一人者であり、茶人としても超一流だった松永久秀は戦国時代の三大梟雄に数えられますが、少なくとも一次史料において彼が主君である三好長慶に背いた事実はないそうです。爆死の話も99%創作でしょうね。
今福砦攻防戦や真田丸の戦いで歴戦の武将たちとともに戦い、八尾・若江の戦いで討死した木村重成がどんな武将に成長したのかは見てみたかったですね。
足利義輝は11歳で将軍となり、30歳で亡くなっているのですが、朝倉義景や上杉輝虎、伊達輝宗など多くの戦国武将に偏諱を与えていますね。
日本号を呑み取った母里太兵衛のエピソードはまさに「いくさ」ですよね。「武士に二言は無い」と差し出した福島正則もカッコいい。
立花宗茂の実父、高橋紹運が命をかけて時間を稼いだ「岩屋城の戦い」は壮絶な籠城戦だったようですね。
「人取橋の戦い」で殿をつとめて討死した鬼庭左月は、政宗を支えた片倉喜多、鬼庭綱元の父としても知られています。
おそらく同時代の武将たちにとっても真田幸村(信繁)のような生き様はあこがれの対象だったのでしょうね。
当時19歳の甲斐姫はその後、秀吉の側室になるのですが、大坂城でどう暮らしていたかは定かではないようです。
徳川家康の天下取りにおいて鳥居元忠の功績があまりに大きかったので、子孫がやらかしたときも改易とならず、減封ですまされてるんですよね。
瓶割り柴田のエピソードは創作の可能性もあるようですが、柴田勝家という武将がこういう伝説が生まれるようなキャラクターだったことが興味深いですね。
10日で230kmを走破したという「中国大返し」ですが、なによりすごいのは同時に畿内の諸将へ書状を送り多数派工作をやってのけたことです。
島津はそもそも東軍として参加するはずだったんですけどね。流れに翻弄されながらも必死に抵抗した結果が敵中突破である「退き口」だったのかもしれません。
「関ヶ原の合戦」が数時間で終わらなければ、数か月から数年は全国各地が戦乱に巻き込まれたでしょうね。
秀忠遅参については本隊を温存したかった説とか、意図的だったという話もあるようですが、真田昌幸がこれによって名を上げたことはまちがいないですね。
直江兼続が家康に出したという「直江状」ですが原本は現存していません。写本しか残っておらず、しかも内容が一致していないということから創作の可能性も指摘されてますね。
伊達政宗の遅参(と白装束を着ての謝罪)についてはドラマチックではあるのですが、よく許されたもんだなあと。
伊達政宗の「撫で切り」には批判も多かったようですが、これをやってなかったら奥州統一はもっと苦戦していたかもしれませんね。
戦国時代、下剋上によって多くの大名が誕生し躍進する一方で、没落し滅亡する大名もたくさんいたわけですが、尼子氏の最後はほんとうに時代に翻弄された感じが強いですね。