榎本秋の「『籠城』から学ぶ逆境のしのぎ方」
私たちは戦国時代に対して、様々なイメージをもっています。雄雄しく戦う武士たち、戦乱に苦しみながらもしたたかに生きる庶民たち、もしくはきらびやか衣服を身にまとう女性たち。
その中でも、防御施設であり、居住施設であり、統治施設である「城」という存在はかなりのウェイトを占めているのではないでしょうか。馬に乗って刀や槍や弓で活躍する武士の姿と同じくらい、そびえ立つ「城」とそれをめぐる「籠城戦」は戦国乱世を代表する存在といっていいかと思います。
城には様々な物語が秘められているものです。
なぜ城は作られた? 普段はどのように使われていた? いざ合戦となった際、守り手はいかに城を活用し、攻め手はいかに城を無力化した? という具合ですね。
誰だって簡単に死にたくはないし、どんな大名だってやすやすと敗れたくはありません。けれど、籠城せざるを得ない状況というのは、たいていの場合その時点ですでに逆境です。敵のほうが数が多い、あるいは敵地の中にポツンと孤立しているような状況で、敵が諦めるまで、味方が駆けつけるまで、どうにか逆境をしのいでいかなければならないのですから。
城を築くという行為には多様な知恵が活かされ、城をめぐる攻防は苛烈なものになります。そこで生まれるものこそ、戦乱の時代ならではの生き生きとした人間ドラマなのです。
本書は、基本的には城に籠もって守る側の視点に立ちつつ、城と籠城戦の姿に迫っていく本です。というのも、一般的なイメージにおける城と、実際の戦国時代の城は、かなりの部分で違っているからです。
たとえば、城というのは白亜の建物とうず高い石垣、広い水堀を擁するものだと思うかもしれません。江戸城、大阪城、姫路城といった現代私たちが見ることのできる有名どころの城の多くがそうだからです。しかし、このような「石の城」は戦国時代も後期に入ってから発達したもので、土塁(土の壁)と空堀(水のない堀)によって囲まれた「土の城」のほうが長い間のスタンダードでした。
城の象徴として有名な高層建築「天守閣」も戦国時代後期にならないと登場しませんし、実はその天守閣自体が一般にイメージされる「お殿様の住居」などではなかったりします。
そもそも戦国時代の城自体、多くが住居というよりは戦争のための防御施設であって、武将は普段別の場所で生活をしていたりするものだったといいます。
どうしてこんなにもイメージと異なるのでしょうか? それは一般的に想像される「城」は基本的に戦国の城ではなく、戦国時代末期~江戸時代初期に築かれた近世の城だからです。白亜、石垣、水堀、天守閣という要素も基本的には近世城郭のそれであって、戦国の城とは少なからずかけ離れています。
戦うために山の上に築かれた戦国の城は江戸時代のはじめ頃に役割を失い、徹底的に破壊されました。代わって残ったのは「近世の城」です。そのため(攻城団の読者の皆さんには釈迦に説法かもしれませんが)戦国の山城を訪ねてみると、しばしば現地の人から「こんなところに城はないよ」と言われたり、あるいは別の場所にある近世の城の跡のほうを教えられたりするのだそうです。
これは仕方がないことでもありますが、やっぱり残念でもあります。
戦国乱世の時代に築かれた城々には、テーマパーク化・公園化した城にはないものがきっとあるものです。それこそ、籠城という逆境に晒された武将と兵たちの「生き残りのドラマ」にほかならない、と私は考えているのですが、いかがでしょうか。
本連載は大きく分けて二部構成となっています。
前半では「戦国時代の城とはどういうものだったのか?」という疑間に迫っていく形です。城の分類や変遷、そして守る側と攻める側がそれぞれどのように戦ったのか、というポイントをなるべく簡潔に、わかりやすく紹介していきます。
後半では「具体的に、どんな城があり、そこではどんな合戦が行われたのか」をのべ四十の城と合戦で紹介します。多種多様なエピソードを通して、戦国時代の城と籠城戦の真実に迫っていきたいと思います。
これらの各種情報やエピソードを通して、戦国武将たちがいかに「籠城戦」という逆境の中で必死に戦い、生き残りを図ったか、というポイントを追いかけていくのが本書の目的です。
本連載では戦国時代の始まりを室町幕府・足利将軍の権威が決定的に失墜したとされる1493年(明応2年)の「明応の政変」とし、その終わりを豊臣氏が滅亡した1615年(慶長20年)の「大坂夏の陣」とします。この区分ではいわゆる「安土桃山時代(織豊時代)」および江戸時代の初期も内包しますが、わかりやすさを追求してこのようにしますので、ご了承ください。
また、本連載は2011年(平成23年)に宝島新書から刊行した『籠城 戦国時代に学ぶ逆境のしのぎ方』を底本としています。
松永久秀の謀反の背景には「麒麟がくる」で採用されたとおり、信長が久秀のライバルである筒井順慶を大和守護にすえたことにあるようですが、爆死伝説は昭和に生まれたエピソードみたいですね。
記事にあるとおり、間近の距離で築城工事をしている以上、北条方がまったく気づかないことはありえないと思います。むしろ約3ヶ月で石垣づくりの居城が完成していく過程を見せつけられるほうが守備側の精神的ダメージは大きいのではないかと。
秀吉についてのエピソードは創作あるいは誇張されたものが多いので、この墨俣一夜城にまつわる話も江戸時代に書かれた『武功夜話』にしか記載がないため真偽は定かではないのですが、建材を筏にして川に流すなどその後に秀吉が実行した水攻めのようにスケー…
北ノ庄城の天守は7層とも9層とも言われており、その前年に焼失した安土城に匹敵する規模であったと伝わっています。なかでも現在丸岡城で確認できる笏谷石の石瓦が使われていたことがルイス・フロイスの記録にあり、さぞすごかったんでしょうね。
元亀元年の姉川の戦いで敗北するも、そこから3年間、浅井氏は抵抗をつづけており、長篠の戦い同様、戦国大名同士の争いが一度の勝敗で滅亡に至らないことを示しています。ただどこまで計算だったかはわかりませんが、小谷城を攻めることで朝倉氏を要害・一乗…
仁科盛信は一族・重臣の逃亡や寝返りが相次ぐ中で最後まで武田家に忠誠を尽くした人物としてファンも多いですよね。盛信は自刃したものの、その子の信貞は生き延びて江戸幕府の旗本になっています。
秋山虎繁がおつやの方を正室として迎えたという有名なエピソードですが、史実と異なるという説もあるとか。ちなみに養子に出された勝長はその後も生き延びて、最後は本能寺の変で信忠とともに討死したそうです。
妙林尼の史料はほとんど残っていないそうですが、耳川の戦いで夫が戦士したために出家し、名乗った名前だそうです。ルイス・フロイスの文書にも彼女と思われる記録があることを考えると、当時はそれなりに話題になったのでしょう。
その後、上杉謙信が死に、織田信長が天下人になったので上杉方についた遊佐氏が裏切り者のように語られていますが、はたして本当のところはどうだったのか。七尾城の戦いを別の観点から捉えた「マンガでわかる七尾城」もぜひ読んでください。
戦国時代の信濃をめぐる争いは村上義清抜きには語れません。もともと義清は信玄の父、武田信虎と同盟を結んでいたため信玄の侵攻を受けることとなり、上田原の戦い、砥石崩れと二度にわたり撃退したものの、攻め弾正こと真田幸綱により砥石城が攻略されると…
策略で奪い取った稲葉山城を放棄した竹中半兵衛はその後、隠遁生活を送ったそうですが、城を返したとはいえ主君を裏切ったわけで、斎藤龍興はなぜ殺さなかったのでしょうね。
六角義治は一時期、亡命してきた一乗院覚慶(のちの足利義昭)を匿ったこともあるのですが、三好三人衆に通じて覚慶を追放したため、その結果として義昭を奉じた信長の上洛戦で戦うことになりました。
秀吉の才覚か、軍師・黒田官兵衛の知略か、あるいはその両者が最高に噛み合った結果か、この中国方面軍時代の秀吉の合戦はドラマチックなものが多いですね。のちの天下人ということで過大評価もあるのでしょうが、スケールがいち家臣の枠を飛び越えています。
秀吉による三木城攻めでは1年10ヶ月を費やすこととなり、味方の損耗、なにより貴重な時間が失われてしまったため、兵糧攻めのアップデートが求められた結果が、この鳥取城攻めでした。今回は事前の兵糧買い占めに加えて、海路も含む兵站線を完全に遮断すると…
荒木村重は大河ドラマの主人公になれるほど魅力的でドラマチックな人生を送った人物だと思います。逃げ延びたあとは道糞を名乗ったとか、自分を拾ってくれた秀吉の悪口を言ったのがバレると出家して道薫を名乗ったとか波乱万丈。 ちなみに今回はじめて知った…
毛利氏の援軍を期待しての籠城戦だったわけですが、毛利が三木城までたどり着くには姫路城などを突破する必要があるので(海路で来るにしても容易ではない)どういう勝算があっての離反だったのか。荒木村重が毛利方についたあとは摂津の港を利用して花隈城…
上杉謙信ってけっこう援軍要請に応えてないですよね。それはさておき業盛の子は生き延びて仏門に入ったとか、業盛の弟・業親の子が井伊家に仕えて彦根藩の次席家老をつとめたとか、長野氏の一族がすべてこのときに亡くなったわけじゃないようです。
城攻めは敵の3倍の兵力が必要だとして「攻撃三倍の法則」という考え方がありますが、その例外が多数あることはこれまでに見てきた通りです。おそらく兵站の心配がなく、籠城側に後詰めが期待できないなら、同数の兵力で包囲してれば勝てそうですね。
いずれ降伏するにせよ、交渉を少しでも有利に進めるために合戦に勝利しておくというのは重要です。この植田城での戦いが回避されてしまったことで、秀吉の当初の条件である「土佐・阿波を安堵」(元親は伊予一国を返還で交渉)から、結果として土佐一国のみ…
空城の計は『三国志演義』において蜀の諸葛亮が魏の司馬懿に対して用いた奇策ですが、本文にあるとおりフィクションの可能性が高そうです。順当に考えれば信玄がその後の戦いに備えて兵力を温存したというところでしょうか。
前田利家の家督相続に反対して一時は浪人にもなった奥村永福ですが、帰参した後は前田家の重臣として活躍します。利家とともに九州征伐・小田原征伐にも参加し、豊臣姓を下賜されたとも。
伏見城や大津城が西軍を足止めしたように、東軍主力の本戦参加を足止めしたのが上田城であり、その戦いが有名な第二次上田合戦です。この戦いがなければ大坂の陣での活躍含め、真田の名前が後世に残ることもなかったでしょうから、一族にとっても意味のある…
彦根城を築城する際、家康は落城しなかった縁起のいい城ということで、この大津城の天守を移築するように命じたそうなので(そのエピソードが事実なら)、やはり関ヶ原の戦いでの勝利に大きく貢献したと家康は評価していたのでしょう。
会津征伐のために徳川家康が大坂を留守にして、その隙に石田三成が挙兵すると徳川方の伏見城を攻め落とす、というこの関ヶ原の戦いにいたるストーリーってどこまで本当なんでしょうね。あまりに出来すぎているというか、単純すぎるというか。 ちなみにこの戦…
かつて上杉・武田を撃退したという成功体験がのちの判断ミスにつながったとも言えますが、今回の話についてはそれぞれの戦いの背景というか、北条氏の同盟関係が変化していることに注目ですね。
この人取り橋の戦いにおける伊達政宗のラッキーは、非常にピンチの状態で武田信玄や上杉謙信が亡くなった織田信長のラッキーに似てますね(暗殺説もあるようですが)。ともあれ歴史に名を残すのに運は必要ということでしょう。
大友氏を裏切った立花鑑載は父を大友宗麟に殺されているので、その恨みもあったようです。後詰にかけつけた援軍が、自領のピンチによって撤退しなければならないという経緯は上月城の戦いに似てますね。
慶長出羽合戦の舞台として有名な長谷堂城ですが、もともと庄内地方をめぐっての上杉景勝と最上義光の争いがあり、それが関ケ原の戦いの際に顕在化したとも言えます。攻め手の直江兼続は長谷堂城付近で刈田狼藉をおこなって挑発したようですが、守将の志村光…
尼子経久によって拡張され難攻不落の要塞と名高い月山富田城ですが、大内義隆らに責められた第一次は防衛に成功したものの、大内氏滅亡後に毛利元就が攻めた第二次では兵糧攻めに敗れ、尼子氏は滅亡することに。
のちに毛利輝元が広島城を築いて移るまで、長年にわたり毛利氏の居城として使われた吉田郡山城ですが、山全体を要塞とする規模になったのは元就の晩年で、尼子氏を撃退した当時はまだ拡張前だったようです(一部の拡張がはじまっていたとも)。