2021-01-01から1年間の記事一覧
たしかに関ヶ原の戦いも徳川家康によるクーデターと捉えることができるかもしれませんね。 もっとも西軍の総大将は毛利輝元なので家康と石田三成で書状の比較をするのは正しくないかも。とはいえ福島正則や加藤清正などは反三成のために東軍についてますしね…
おそらく日本でもっとも有名なクーデターがこの本能寺の変でしょう。 明智光秀が謀反を起こした理由はわかりませんが、織田信長だけでなくすでに家督を譲られていた嫡男・信忠も同時に京に滞在していたのはまさに千載一遇のチャンスでした。
近年、戦国時代の幕開けとなったのはこの「明応の政変」ではないかと言われています。 家臣によって将軍が勝手に交代させられるという文字通りのクーデターは将軍権威の失墜を決定的なものとさせました。
失墜した幕府の権威を回復するために9代将軍・足利義尚が取った行動は反抗的な守護大名への武力による征伐(鈎の陣)でした。攻撃対象となったのは近江守護・六角高頼でしたが、義尚は京に戻ることなく早逝します。 第二次六角征伐は10代将軍・足利義材によ…
2021年8月末に結果発表した全国入城者数ランキングについて、その後に熊本城の数字が判明したこともあり、補足動画を公開しました。
応仁の乱のきっかけともいえる畠山氏の家督争い、すなわち畠山政長と畠山義就の戦いは長期化し、多くの農民が苦しんでいました。 そこで農民たちは一揆を結成すると、両陣営を立ち退かせることに成功したのです。
9代将軍の座をめぐり、兄・義政から将軍就任を約束されていた義視と、せっかく生まれた我が子を将軍にしたい日野富子らが対立した結果、起きたのが文正の政変です。 富子に味方した政所執事・伊勢貞親らが追放されることになりましたが、この火種がのちの応…
日本という国の領域は時代によって変化しますが、東北からさらに北上して北海道に進出がはじまったのが室町時代だそうです。 当然、先住民であるアイヌ人との交流や摩擦が生まれるわけで、最終的には武力衝突となってしまいました。
関東における鎌倉公方と関東管領の対立は収まらず、京の幕府はこれを収拾するために時の将軍・足利義政の弟、足利政知を新公方として送り込むのですが、事態はさらに悪化していくのです。
もうひとつの嘉吉の変がこの禁闕(きんけつ)の変です。足利義満に約束を保護にされた南朝方の残党が三種の神器を奪いに御所を襲撃するという事件でした。
「嘉吉の徳政一揆」とも呼ばれるように土一揆は基本的に徳政一揆でした。 比叡山との関係の強さは暗殺された6代将軍・足利義教が将軍就任前は比叡山延暦寺のトップである天台座主だったことからもわかりますね。
足利義教は多くの有力守護大名の家督相続に介入し、また粛清もしたため「万人恐怖」と呼ばれました。その義教が赤松満祐によって暗殺された際も「自業自得」と記録されたことから当時の人たちにとってもよほどの異端児だったのでしょうね。
鎌倉公方・足利持氏は幕府軍に敗れたものの、そのまま関東が幕府の支配下におさまることに不満をいただいた勢力が蜂起したのが結城合戦です。結城氏朝が遺児を担いで反旗を翻しましたが、幕府軍に討伐されました。
関東に支配権を延ばそうとする幕府(将軍・義教)と鎌倉公方・足利持氏が衝突するのは自然なことでしたが、持氏としてはくじ引きで選ぶくらいなら自分を将軍職にと思うのも当然でしょうね。 結果として関東ではこのあとも戦国時代に入るまで混乱がつづきます…
国一揆の始まりとも言われるのがこの播磨の国一揆です。 播磨守護・赤松満祐の軍兵を追い落とすという事態に発展しましたが、守護代浦上氏らによって鎮圧されました。
凶作、流行病、相次ぐ将軍の代替わりなどの社会不安を背景に起きたのが正長の土一揆でした。 土一揆は「つちいっき」とも「どいっき」とも読むそうですが、この「土」は当時の農民や百姓のことを「土民」と称したことにちなんでいるとか。
上杉禅秀の乱は鎌倉公方とそれを補佐する関東管領の対立により起こった事件で、そこに山内上杉家と犬懸上杉家という上杉氏内の争いもあり武装蜂起にいたりました。 さらに時の将軍・足利義持の弟、足利義嗣が禅秀に呼応するなど幕府も巻き込まれています。
つづいて義満が排除を試みた有力守護大名は大内義弘でした。しかしこの乱は大内氏単独のものではなく、先の土岐康行の乱で没落していた美濃の土岐詮直や、明徳の乱で滅ぼされた山名氏清の嫡男・宮田時清、さらには鎌倉公方・足利満兼も挙兵するなど、幕府と…
「六分の一殿」と呼ばれた山名氏一族の権力をそぐため、将軍・義満によって画策されたのが明徳の乱です。 この乱の結果、山名氏の領国は但馬・因幡・伯耆の3か国に減らされ、その他の旧領は論功行賞で畠山・大内・一色・赤松諸氏に分与されました。
有力守護大名である土岐氏が将軍・義満に振り回されたのが土岐康行の乱です。 一族の内紛に幕府が介入したことにより、土岐氏の勢力を弱体化させることに成功しました。
康暦の政変は管領・細川頼之が有力守護大名の斯波義将らに追放された事件ですが、見方を変えれば成長した将軍・足利義満が細川一族の権力を取り上げるために起こしたとも考えられます。
軍事の天才・足利尊氏を内政面で支え続けた弟の直義でしたが、足利家の執事で側近であった高師直の存在により対立することになります。 南朝も巻き込んだ全国規模の兄弟喧嘩でしたが、最終的に当事者の直義も師直も死亡し、尊氏だけが生き残る結果となりまし…
ついに決裂した後醍醐天皇と足利尊氏の争いが延元の乱(建武の乱)です。一時は尊氏を九州にまで追いやった天皇方でしたが、最終的には京を奪還されます。結果、吉野に逃れた後醍醐天皇が南朝を起こし南北朝時代がはじまります。
マンガ『逃げ上手の若君』の主人公、北条時行が起こしたのが中先代の乱です。 この乱では足利尊氏に敗れた時行ですが、その後も抵抗をつづけ、二度にわたり鎌倉を再奪還しています。
後醍醐天皇とその倒幕計画に同調した勢力により起こされたのが元弘の乱です。 なお『国史大辞典』では全体を「元弘の乱」と呼び、後醍醐天皇が隠岐に配流されるまでを「元弘の変」と呼んでいます。
鎌倉時代の末期は北条得宗家の執事にあたる内管領が権勢を振るっていました。 裁定すべき内管領・長崎高資が対立する双方から賄賂を受け取り紛糾させてしまったのが津軽大乱(安藤氏の乱)です。
後醍醐天皇による最初の倒幕運動がこの正中の変とされてきたのですが、最近はこれは『太平記』に基づく冤罪で、後醍醐天皇はこの時点では倒幕を考えていなかったという説もあります。
有力御家人、北条氏一族、自らに仕える御内人と次々に排除してきた北条得宗家でしたが、最後に起きるのが得宗家内部での殺し合いというのも皮肉なものです。
霜月騒動によって権力を握った平頼綱でしたが、当然反発も生まれるわけで、執権・北条貞時により滅ぼされました。貞時の娘2人を含む、一族93名が死亡したとか。
こっちは「十一月騒動」じゃなく「霜月騒動」なんですよね。弘安合戦、安達泰盛の乱、秋田城介の乱など、いろんな呼び名がある事件です。 幕府に仕える御家人と、得宗家に仕える御内人との対立により、有力御家人・安達氏が滅ぼされました。